ライフハック心理学

心理ハック

忘れるということ

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という小説があります。

全く売れた小説ではなく、もうだいぶ昔に絶版になってしまったのですが、個人的にはかなりのお気に入りです。

この小説は、いわゆる「認知の歪み」が知覚に影響するという現象を、物語化したものなのです。

主人公の女性は、物語のなかで、ある男性と恋に落ちますが、この二人の関係はいわゆる公には認められない類の関係です。

こういう話は小説には腐るほどありますが、恋に落ちる理由が面白いのです。ある特殊な館の「上の階の部屋」に入ったときにだけ、両者は恋愛関係にあることに、気づくのです。

両人は、「ふだんには、社会的約束事や、自分の運命に対する漠然としたあきらめのような感情」のせいで「心が曇っている」のですが、「館の上の階の部屋」を訪れたときだけ、「本当の自分たちに目覚める」ことができるので、「本当に一緒になるべきはこの相手だ」ということがわかるのです。

が、下に下りてしまうと、二人はそのことを自覚できなくなるので、再び両者の関係は、よそよそしく、つまらないものになります。

二人は何とかして、「上界での自覚」を「下に下りてからも維持したい」と思い、お互いにメモを交換したりしますが、なかなかうまくいきません。下に下りてしまうと、忘れてしまうのです。自分の名前や、自分たちがそれまで上界にいたということは覚えているのですが、最も重要なことは、忘れてしまうのです。

という設定の物語です。設定はぎこちなく、書きっぷりはいっそうぎこちないのですが、私はこの本でなくては味わえない感覚を思い出すので、時々読み返します。

多くの人は、たとえば海外旅行などで連泊したとき、時間感覚や、他人に対する意識の持ちようが、大きく変化した感じを味わった経験があると思います。そういうときには、自宅へ帰っても、同じように大きな気持ちで活動できたらいいのに、とは思うのですが、なかなかそうはいきません。

見慣れた玄関、見慣れた置き時計、見慣れたマウスなどなる空間に入ったとたん、何かがかちっと作動して、意識状態が元に戻るのです。そして、「あのときに感じたらしい大きな意識」は取り戻せなくなっています。

そういう意識の多重性を描いた小説なわけです。