心理ハック
週次レビューとヒューリスティックス

GTDを実践している方がよく、「週次レビューが実践できない」とこぼしているのを耳にします。実際にかかる時間の大小にかかわらず、これをなかなか実践する気持ちになれず、何となくやりたくなくなる理由ははっきりしています。
「週次レビュー」に限らず、5日か6日溜め込んだものを、週に一度、定期的に片付けるという習慣をつけるのは、難しいことです。細かく言えば、難しくはないのですが、やりたくならないのです。経費精算とか、レシートの処理など、みな同じような面を持っています。週に一度くらいやればいいことは、頭ではわかっていますが、それでもやる気になれないのです。
それは、週に一度、定期的に、そしてイメージの上では機械的に実行するということを、人間の頭は好まないのです。実行すべき理由は、合理的なものですが、私たちの心と体は、別の合理性によって動いています。それはヒューリスティックスという、独特の直観主義的な合理性です。
よくこれは、恋人探し、結婚相手など、人生上の重大な決断に際して活用されていると、やや皮肉っぽく、心理学者によって指摘されています。私たちは、恋人を探すに辺り、健康、年齢、生活スタイル、政治信条、趣味、会話のスタイル、などなどを、総合的にデータ解析して選び出すわけではありません。そういうことを毎日15分ずつやって、その後、恋人「候補」との関係を築くためのトレーニング15分をやって、最後に出かけていく、というやり方はとりません。
人生の重大な選択とはいえ、もっと「直感的な」、そして「経験則的な」判断基準を利用して、後は「勢い」などに任せるものです。行動半径内にある最高においしいラーメン屋を、データベースで解析するようなやり方は避け、良さそうなところがわりあい込んでいたら入ってみるものです。「行列のできるラーメン屋さんはおいしい」というような「合理的基準」で行動するのです。
理知的にほぼ文句のつけようのない、やや機械的な合理的行動をとるのは、多くの人にとって気の乗らないことです。私の知る限り、私の家族の誰も、かなり高いものを買う場合でも、カカクコムなど一切チェックしません。その製品のスペック、クチコミ、満足度などなどをチェックするのに、うんざりするので、そんなことをするくらいなら「ババをつかんだ」方がずっとましだ、と思うからです。
しかしだからといって、まるっきり目隠しをして決めてしまうわけでもない。一応お店の人の説明を聞いて、見た目と触った印象くらいはチェックする。友達の意見なるものも、一応は参考にする。あるいは私にカカクコムで調べさせる。これらはこれらなりに、合理的です。
話を週次レビューや経費精算や家計簿に戻しますと、人間の頭はおそらく、「毎週水曜日」という「過去の自分が決めた規定」に機械的にしたがわずとも、それを「明日か、3日後か、あるいは来週の同じ日に」回してしまっても、大きな差し支えは起こらないだろう、と判断したがるのでしょう。熟考した結果の合理性には及ばずとも、これはこれなりに合理的です。
絶対にやらなくてはいけないわけではない、週に1回だけやるべきことを「やらない合理的な理由」は、考え出しやすいものです。「今少し楽ができて、おそらく最後には何とかなって、どこかでたくさん時間のとれるときに集中的にやって・・・」という働き方をする頭は、「このラーメン屋さん良さそうじゃない? まあまあ込んでるし・・・」という働き方の頭と、相性が良さそうです。
したがってかなり簡単なことでも、最初から「週1」でやろうとすると、難しい。むしろ最初は「毎日」繰り返すことにして、徐々に、2日に1度、週に2度、と習慣化してから間隔を空けていった方が、うまくいくと思います。
「名古屋ライフハック研究会」の感想ブログから
「手帳を家に忘れると、仕事の効率が悪くなる。」と言ってた時に、
「それってどうなの??手帳に頼りすぎじゃない?」って言われたこともあった。その時も揺らぎましたが…(人に言われるとすぐ不安になるあたり^^;)
今回の講演を聞いて、
やっぱり、記憶じゃなくて記録にすればいいんだ、と思って背中を押された気がします。*ever bule*
http://bluedeepmoon.blog105.fc2.com/blog-entry-63.html
名古屋でのセミナーから少々時間が空いてしまいましたが、このエントリを読み、ちょっとびっくりし、考えさせられるところもあって、取り上げさせていただきます。
「手帳に頼りすぎ」なるほど。そのような発想は私には実はなくて、素直に驚くわけですが、ある種の単純な記憶力は、もしかすると手帳に書き留めることで、衰えるのかもしれません。
ただ、私たちは本当のところ、「短期記憶を忘れまい」とはしていません。短期記憶の内容は、全滅してしまっても、それで困ることはないからです。よく私が挙げる例に、神経衰弱のカードの位置、があります。子供の頃、一度は、真剣に、スペードのクイーンがどこにあったかを記憶したこともあるでしょう。
それは、翌日には消える記憶です。短期記憶はそれでいいのです。脳もそう思っています。短期記憶を正確に長きにわたって保存しておこうなどと、機能していないのです。
仕事で必要な記憶の多くは、事実上短期記憶です。長期記憶は、必要に応じて記憶されますから、紙に書くとか書かないとか、記録するとかしないとかで、悩む必要のないものです。たとえば、職場までの道順は、手帳に書き留めるまでもなく、忘れることはありません。これこそが、長期記憶というものなのです。
紙、ないしはiPhoneなどに「記録」するべきは、長期記憶化したい短期記憶なのです。脳としては、それらが「長期記憶」として保存するべきだと、判断できない。長期記憶化するには、いくつかの条件が足りない。重要性、刺激の提示頻度、文脈依存効果、そのいくつかは何となく満たしているが、いくつかは欠落している。落としてもいいのか、長期記憶化すべきであるか、あいまいだ。このグレーゾーンにある記憶について、人は「不安を覚える」のです。
「不安を覚えた」記憶こそが、記録すべきものです。記憶についての不安は、記憶の歪曲、干渉、妨害、忘却など、様々な可能性について回ります。記録すれば、歪曲とも干渉とも妨害とも無縁になります。したがって、不安を覚えさせるグレーゾーンの記憶を記録と化することによって、不安が解消され、大きな安心がもたらされるわけです。頭を空っぽにして、ストレスを大きく減らすとは、こういうことを意味しているのだと思います。
人生ゲーム入門―人間関係のテクニック

| 人生ゲーム入門―人間関係のテクニック (1967年) (ワールド・ブックス) 南 博 河出書房 1967 |
この本は、いわゆる「ポピュラーサイエンス」の心理学編の古典です。かなり古い本であるため、翻訳本の訳もやや古く、一部読みにくいところはあります。しかし、通読すれば人間関係について、ユニークな視点を得られることは間違いありません。
本書の用語
専門系の通俗本はたいていそうですが、本書にも独特の用語があります。以下にいくつか挙げましょう。
・ゲーム
本書で「ゲーム」と言っているのは「人間関係」「社交」「交流」のことです。たとえば著者は「雑談というゲーム」という言い方をします。きわどいところで「セックスというゲーム」や「アルコール依存というゲーム」までありますが、なぜこういう言い方をするかというと、「人はみなゲームによって一定の恩恵を得ている」からなのです。
・親、成人、子供
著者によると、人間は誰もが「親」「成人(本人)」「子供」という「プレイヤー」を操って、ゲームをプレイします。これらのプレイヤーを巧みに操りつつ、それぞれの「ゲーム」の中で、利益や快感を得ていくというわけです。
たとえば、教授や作家といった人たちは、「雑談ゲーム」の中で、「自分の中の子供」に報酬を与える機会を、うかがっています。彼らは
「ほらお母さん、手を離して自転車に乗れるようになったよ!」
とみんなに自慢したいのです。
「雑談ゲーム」が巧みな人は、機会を捉えて「親」の役割を引き受け、「さあみなさん。「夫さえいなければ」のゲームは終わりにして、「ほらお母さん、手を離して自転車に乗れるようになったよ!」のゲームに移りましょう。A教授は今度、新しい本をお出しになるそうだから、きっとこのゲームをなさりたいでしょう」と場の会話を誘導することができます。
本書の背景
「交流分析」という考え方は、主に著者のエリック・バーンが編み出した方法です。「親」「成人」「子供」などという用語からもわかるとおり、「人生ゲーム」のアイディアのもとには、精神分析学があります。
ただ、「交流分析」の方はほとんど「無意識と自我」のような区別にこだわらず、また「幼児期の記憶」を掘り下げる方法論も採りません。どちらかと言えば現実的で、リアルタイムのやりとりに焦点を合わせています。それだけに「深みがない」「通俗的」といった批判は当然ありますが、かわりに一般的なうけは大変よく、『人生ゲーム入門』も大ベストセラーとなり、累計で500万部売れたといわれています。
本書の主張
エリック・バーンはあまりにもよく筆を走らせて、「ゲームの実例」を次々に投入しているので、読者によっては不快になったり、とにかくおもしろがったりするということになるでしょう。
が、本書の主張は十分強調されていませんが、「ゲームをやめる」ことにあります。少なくとも「ゲーム中毒」になってはいけないのです。あまりにも破滅的なゲームを続けることは、自ら精神病を招くようなものだと、著者は考えています。あるいは著者の考えによれば、精神病とはそもそも、あまりにも破滅的なゲームにはまり込むことなのです。
本書の限界
本書の限界はいうまでもなく、「深み」に欠けることです。ひどく難しい問題を、ことごとく「ゲーム」にしてしまい、「人間はゲームをする」というフレームワークで、分析を徹底している結果、問題解決のための相当の努力もやそれにまつわる悩みまで、「何かを悪化させる要因」におとしめられてしまいかねません。
しかし一方で、著者はきわめて鋭い批判能力を持っています。よほど気をつけていないと、難しい事態に直面すればするほど、私たちは「ゲームプレイヤー」になってしまうのです。(ここでドストエフスキーの登場人物を思い出す人も多いでしょう)。自我と自尊心の満足というものは、それほど人の心の中で、重要視されているのです。「人はみな、ストローク(愛撫)を求めている」という著者の言葉は、反省してみれば事実だと思い知ります。そのストロークの交換こそが、「トランザクション」(交流)なのです。
とはいえ、私たちの日常はその95%までが「交流」で占められているかもしれませんが、「交流」の分析だけでは終わらせられない、もっとましなものもたしかにあるように思えます。そのような「深み」を、「深層心理分析」で明らかにできるかどうかはわかりませんが、少なくとも何もかもを「交流分析(TA)」で済ませるのは、やはり「深みに欠ける」と思えるのです。
怒りの矛先
やや、マインドハックの範疇から逸脱した話をしますが、(もっとも、このブログにおいてこれはしょっちゅうですが)、「怒りを適切に示す」という昨日のテストは、通常、広範囲に役立つライフハックだと思っています。
というのも、「怒りを表す」というのは、難しい人にとってはきわめて難しいことで、その結果、じつに気を重くさせるような事態を引き起こすことにもなるからです。
私は留学中、精神科医を引退した男性教授から、じつに興味深い「受動攻撃性の患者」の話を聞く機会がありました。受動攻撃性というのは、典型的に見るところでは、次のような態度です。
夫 何を怒ってるの?
妻 別になにも(怒っている)
この程度でも、難しい事態を引き起こします。しかし、人間は知恵にあふれ、感情の動きも大変複雑ですから、これよりずっと複雑な態度と行動でもって、ずっとやっかいな事態を引き起こすこともできます。
その受動攻撃性の患者さんも女性だったそうですが、彼女はアメリカ人が一般にけっこう多用する「アプルプリエイト」(適切な)という単語に病的な嫌悪感を抱いていたところが、まず印象的だったそうです。これだけでも、かなり興味深い話です。
彼女の「攻撃性」は、非常に複雑で、ちょっと話を聞いたり観察したくらいでは、何を考えているのかぜんぜんわからないほどだったと、教授は説明しました。しかし全体を理解して、要約して考えてみると、一貫して気味の悪い心理状態が見えてきたというのです。
彼女の当初の行動パターンは平凡なものでした。ときどき風邪を引くひとり息子の「薬の時間をうっかり忘れる」というものでした。いかにも平凡なこの行動にさえ、「攻撃の意志」が隠れているのだと気づくのに、時間がかかったと教授はいいます。
彼女はそのような「ミス」を犯したことについて、薬を処方してくれた医師などに、罪悪感を訴えました。もちろん医者は、そんなに大げさに考えることはない、などと答えたようです。これ自体はむしろ、つまらないエピソードに過ぎないのですが、かかりつけの医師はときおり、妙に息子の体調が悪いように見えることに気がつきました。「ときどき薬を飲み忘れた」程度で、そんなに体調を崩すはずがないと思ったのです。
そうしたことが何度かあったため、医師が女性を、少し強い調子で問いだたしたところ、女性は目に涙を浮かべながら、実は息子に薬を飲ませ忘れたときに、あとで薬の数のつじつまが合わなくなると自分が責め立てられると思って、忘れた分の薬を一度に飲ませていました、と告白したというのです。もちろんそのことに医師は腹を立て、二度とそんなことをしてはいけない、と言い渡しました。
しかし、この女性の涙は芝居でした。いや、あるいは芝居ではなかったのかもしれないが、わからなかったと、老教授はいっていました。芝居であったかどうかはわからないが、大事な点は、その女性はその後も頻繁に、医師の忠告などにまったくかまわず、「うっかり薬を飲ませ忘れ」「つじつまを合わせるために多めに薬を飲ませる」という行動を繰り返したのです。
かかりつけの医者はとうとう憤慨して、あなたのやっていることは児童虐待だ、調査して息子さんを一時的に保護することも必要だと声を荒くしたそうです。すると女性は、ぜひそうして欲しい。自分は無知で馬鹿だから、子供を育てる資格などないのだと、涙声で訴えたというのです。医師はそこで少し不安な気持ちになって、当時精神科医であった老教授に相談したというわけでした。
この女性の行動は、全体が一つのセットになっていたというのが、教授の結論でした。彼女の行動動機は、怒りでした。その怒りは、自分の夫に向かっていました。その夫というのは、温厚でまっとうで話のわかる高給取りで、一家の生活は中上流のアメリカ家庭といったところのようでしたが、彼女は夫とまったく喧嘩しないのに、激しく憎んでいたのです。というよりも、彼女は夫と喧嘩ができなかったのです。
なぜなら、彼女の言葉を使えば夫はいつも「アプルプリエイト(適切)な側」にいるから、ということでした。たとえトラブルに直面しても、みんなで知恵を出し合って、適切に話し合いをして、適切な行動をとれば、解決できない問題などあり得ない、というのが彼の持論でした。したがって彼女の家には何も問題はなく、少なくとも「解決できない問題」は何もなく、たしかに見た目には何の問題もない、「アプルプリエイトなファミリー」というわけでした。
(この言葉のこうした多様は、日本人の私にすらいかにも不適切なものに思えます。女性はあからさまに皮肉を言っていたのでしょう)。
しかしそうした「解決できない問題が何もない」家にあって、彼女は「不満と不安」を抱えていました。ただしそれを彼女は、自分ではっきりと意識しないようになりました。それは「解決できないもののように思える」としても夫はそうと認めてくれないし、「そんなものを抱えている自分はよほど無力か馬鹿だ」ということにしかなり得ないように、思えたからです。
しかしこれだと、考えようによっては、夫こそが自分を馬鹿で無知だと思わせているようにも、彼女には思えてきました。そのことこそが彼女の怒りの要因になってきたわけで、となると、それを夫に告げてもどうなるものとも思えないし、それをどうせ「適切な解決策」で解決してしまうのだろう。いや、解決した気になって自己満足に浸るのだろう。
それで彼女はこの怒りを抑え込みましたが、実際には、日に日に怒りが強くなっていきました。そして、これも彼女の言葉によると、「絶対にこの怒りをアプルプリエイトに解決されてなどやるものか!」と決意したそうです。それは怒りを外に漏らさずに、夫に手の込んだ復讐を企てるという形になって現れました。
つまり、無知で頼りない母親として、息子の薬を飲ませ忘れ、その代わりに大量の薬を一度に飲ませ、息子の体調を犠牲にして、そのことを医師の前で暴露する。そんな女を妻にしているのが、あの「アプルプリエイトな夫」なのだと、なるべく多くの人に知らせてやろうとしたわけです。
教授はさらに、彼女には「代理ミュンヒハウンゼン症候群」の症状もあったと教えてくれました。つまり、何度かはわからなかったが、息子に毒を盛ったこともあった、というわけです。
私にはこの話、にわかには信じがたく、このエピソードこそ教授の手の込んだ作り話なのではないかと疑念を持ったのですが、ある代理ミュンヒハウゼン症候群の患者が逮捕される瞬間のビデオ映像を見せられたことがあって、人間は、ある意味なんだってしかねないと衝撃を受けた覚えがあります。
同時に、怒りを胸にためるというのは、よくよく気をつけないといけないと考えたものでした。
前向きに怒りを表現できるか?

今日のテストのお題はこれです。
正直、私自身はこれが苦手です。が、どうしなければいけないか、ということは徐々にわかってきました。
とりあえず、いつものように自己傾向を探ってみましょう。
「怒りをうまく表現できるか」をやってみる








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