心理ハック
031 相手がいる場合
たとえば、ピアノを弾くのを覚える場合についていえば、ピアノの正しい指使いが出力パターンである。
それをまちがえるのは、小脳に正しいパターンが記憶されていないからである。そこで練習を繰り返してまちがえるたびにシナプス結合を変えて正しいパターンに近付けていけぱ、やがていつでもまちがいなく弾けるようになるというわけである。
『脳を極める―脳研究最前線』立花隆著 朝日新聞社
以上は、あくまでも「相手」がいない場合です。ピアノや自転車ようなものなら、ある程度弾けるようになり、またとにかく乗れるようになればいいのですが、これが、サイクリング・レースとなればそうはいきません。「ただ乗りこなすことが出来るが、試合ではいつもビリ」は「成功」とは言えません。「失敗」とみなされます。
しかも試合ではただ失敗を繰り返せば、いつしか「失敗しなくなる」=優勝する、というわけにはいきません。ここが、手続き記憶を形成すればいいだけの場合に比べ、競争の難しいところです。
ところで、この失敗をフィルタアウトして成功に導くという戦略ですが、ことが試合や競争となると、むしろ失敗を山のように繰り返すことで、失敗のパターンを「見える化」するのが第一歩となるのでは、と近頃思うようになりました。
テニスなどをやっていると常々意識させられることですが、いつもいつも同じタイミングと流れの中で起きる失敗、というものがあります。「ああ。前にやられたことと全く同じ事をやっている!」と、失敗する前から感じるわけです。それも、2度や3度ではありません。数えてはいませんが、たぶん、1000回は繰り返しているでしょう。スキーなら、明らかに「失敗の文脈」にある失敗を、少なく見積もっても私の場合、10万回は繰り返しています。それでも、失敗を克服できないのです。
よく「変な癖がつかないように、ちゃんと習う」と言われますが、色々なスポーツをやればやるほど、これは嘘だと感じます。この「変な癖」が「失敗への流れ」なのですが、これを繰り返さなければ、普通の運動神経(この言葉は恐ろしく微妙ですが使います)しかもたない私のような人間の場合、高度な技術の成功など覚束ないとしか思えません。
野球などは特にそうですが、内野をやっているとまず必要なことは、玉を怖がらなくなることです。しかし、ボールへの恐怖心をある程度克服するまでに、「変な癖」は絶対つきます。何しろ、無意識にボールをよけながら、なおかつ捕球しようとするので、体勢が滑稽なくらいに崩れてしまうのです。ここで、繰り返し「変な癖」で捕球努力する中で、完全に「変な取り方」を身につけてしまいます。言うまでもなく、これは失敗率が高い。しかし、この段階まで来て初めて、自意識が役立つわけです。
つまり、「あ!この流れで行くと、100%失敗する!」と、1万回の体験から、あまりにも明らかになったので、注意してその流れを、抑制するわけです。これは、小脳の自動失敗抑圧メカニズムとは異なっています。
運動神経が優れていれば、私のような遠回りをせずに済むかもしれません。しかし、たいていのスポーツで、技術の使用場面は一瞬の出来事ですから、「失敗」を「注意」で抑圧するには、時間が足りな過ぎるのです。極端な短時間で、失敗を意識的に抑圧するとなれば、失敗そのものの予測がついてなければならないはずです。失敗を予測するには脳の機能から考えて、失敗が長期記憶されていなければならないでしょう。つまり、「変な癖」が身についていなければ、無理なのです。
以上のことは、相手のいないか、あるいは技術向上を「非常に必要」とはしない運動記憶。すなわち自転車や自動車の運転、タッチタイプでは、それほど「変な癖」が目立たない。
逆に、ピアノのような超ハイレベルな技術、もしくはテニスのような相手のいるスポーツ、ないし、スキーや野球のような恐怖心の伴うスポーツで、「変な癖」がつきやすいことと関係している、いい証拠になっていると思えます。
つまり、タッチタイプや車の運転では、純粋に「失敗抑制メカニズム」で、いつしか「失敗しなく」なりうるのです。しかし、ピアノやスキーで、「失敗しなく」なるには、かなりの失敗が欠かせません。ピアノのような高度な技術では、成功のパターンが狭いために、意識して「これは失敗!」と注意する必要があるわけです。スキーや野球のような恐怖心の克服が必要な場合には、成功・失敗の基準が、2つ出てきます。痛い目に遭わなければ、成功という感覚と、「本当の」成功とです。これも、意識的な要素が必要になってくるでしょう。そして、相手がいる場合です。言うまでもなく、どんなにすばらしいフォームで打てても、負ければ「成功」とは言えないのです。
まとめると、素朴な感覚で言うところの「失敗」を抑圧しただけでは、高度な技芸・恐怖を伴う技芸・相手のいる技芸においては、成功できるとは言えないのです。そのために、失敗をまず身につけ、これを「意識できるレベルで」再現できるようになったところで、意識的な失敗の抑圧が必要になる、という流れです。
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