ライフハック心理学

心理ハック

191 新連載・心理哲学談話-Mental Philosophy Logue-004 Clip to Evernote

「現実」の価値

先週の終わりに、

次週から「心理学」のお話しへ移ることになるわけですが、実はまだ、「物理学」の「決定論」が片付いていません。(カントの力を借りて、「ニュートンが正しいかどうかは、わからない」と強引に頭を切り換えたに過ぎません)。ニュートンの「万有引力」はその後もずっと何かと影を落とすのですが、その話は時折交えつつ、アメリカ留学中に考えていたことを、次週からはお話ししたいと思います。

と、書きました。しかし本日は、渡米の直前のところから、話を始めることにします。

渡米直前、私はNTTドコモサービスの、料金センターで事務仕事をしておりました。「現実」と「哲学」というものは、どこへ行っても相性の悪いものではありますが、どう考えても「現実は決定済みか、それとも不可知なのか」などと考えつつ、毎日勤務しているというのは、けったいなものです。私の頭は「不可知」へと、当時はかなり傾いていたわけですが、「不可知」となりますとそれはそれで、子供の頃からの疑問が頭をもたげてきます。

たとえば、私が例によって例のごとく、うつっぽい頭で、遅刻して課長に叱られているとします。いや、仮定にする必要はないですね。その通りのことが、十分な頻度でありましたから、課長に怒られていました。そこで私は、半自動的に考えてしまうのです。

「今目の前で怒っている課長は、本当に怒っているのだろうか?」
「遅刻という悪い行動の、主体である佐々木という人間を「認知」し、課長の脳内の扁桃体に、血流量が上昇しているのか?」
「そもそも、遅刻が悪であるという価値認識は、課長の頭では、どの程度明確になっているのだろう?」
「だいたい、価値とはなんだ?一切が不可知の世界の中でも、価値というものは、心の中のものとして、実在を主張しうるものなのか?それとも外部に何らかの形で、数値化できる形であるのか?金銭はどうか?」
「そもそも、私は本当に叱られているのか?夢を見ているだけではないのか?」

このいずれもが、私にとっては、常習的な思考であったため、「こと」が起きれば自動的に想起されてしまう疑問ばかりでしたが、それをいちいち胸に留めておかねばなりません。そして、全然関係のないことを、「私」は喋っていたわけです。これは明らかに問題でした。たとえこの問題が、どれほど解きがたいものであっても、曲がりなりにも納得のいく形にしておかないと、とても三十年も社会生活を切り抜けて(当時は「切り抜ける」という表現がしっくりいっていました)いけるはずはなさそうでした。

こう書くと、いかにも現実生活で、私が悶々としてばかりいたようですが、別にそういうわけではないのです。風邪でも皮膚病でもそうですが、慢性的な疾患というものは、一進一退を繰り返します。私も、何もかもいやで頭を起こすこともできない日もありましたが、気分爽快な日も確かにあったのです。別に会社が嫌いだったわけではありません。

ただ、「自分は夢を見ている」という認識を、夢見の最中に持つことがあります。明晰夢というものですが、日常の活動が、皆そういう印象を持っていたのです。これが、私の子供の頃からの疑問でした。人は夢見の間、自分が夢を見ていると気がつけないのに、起きて自分が夢を見ているのではないと、信じている根拠はなんだろう?

この疑問が、「不可知」ということから派生し、思考をつきまとって、離れなくなっていったのです。「不可知」ということはつまり、内心のことはともかく(自分がどう「感じている」かはともかく)、現実世界のことには、究極的にはノータッチ、という意味になるでしょう。それは、起きながら夢を見ているのと、何も変わらない意味になるはずです。ちょうど、映画『マトリックス』の世界なわけです。

私がこの疑問を初めて抱いたのは、幼稚園の年長(五歳)の時のことでした。恥ずかしい話なので、あまりこの話をしたくないのですが、もう大昔のことで時効としましょう。といって、別にたいしたことじゃないのですが。その時の先生が、とてもとてもコワーイ女の先生で(考えてみれば、高校卒業したばかりの保母さんを、あそこまで恐れていた自分が可笑しいですが)、歌唱の時間に「トイレに行きたい」などと言おうものなら、そこで怒鳴られるかひっぱたかれるか、といった有様でした。

そして自分はそんな先生の下でもうかつな人間ですから、歌唱の時間にトイレに行きたくなったわけですが、それを告げることもできず、お漏ししちゃったというわけです。

さて、そこで考えました。つまり非常に恥ずかしかったからなのですが、

「自分のこの不名誉(という言葉では考えられませんでした。以下に登場する漢熟語も同じ)に対して、自分が感じているこの羞恥心は、一種の自責の念だけれど、他人がそれを笑うから自分は恥ずかしがるのか、それとも本来恥ずべき行いをしたから他人の評価とは関係なく、自分は恥ずかしがるのか?」

この答えは、私に限っては分かり切ったことでした。お漏ししたのが公衆での出来事だから、恥ずかしさは倍以上増していたのです。自分ひとりなら、何とも思わないということはないにせよ、「みんなの前でなくて良かった」と思ったはずだ。とそう思いました。

それなら、と私は続けて考えました。(パンツを履き替えながら)。

これが夢だとしたらどうか?当然、恥ずかしがる必要なんてなかったんだ、と起きてから思うだろう。では、これは夢ではないのか?本当に自分は、起きていると言い切れるのか?寝ているときも自分はしょっちゅう、起きていると思いこんでいる。ほんもののトイレだと思っておしっこすると、夢だったことに気づくことがある。そうなると、厄介なことになる。つまり、自分には、起きているのか寝ているのか、寝ているときにはわからない。それなら今どうして、自分が目覚めていると言えるのか?

この問題について、納得いくように答えてくれた人は、その後もひとりとして現われませんでした。そして、自分でも考え続けたものの、やはりよくわかりませんでした。

(ちなみに私はこの問題を「ウラシマ問題」と勝手に名付けていました。功成り名を遂げた大会社の社長(でも何でもいいのですが)が、ふうっと自己満足のため息をつきながら、用を足す。そこで、自分がお漏しをしている幼児だったと気づき、目を覚ます、というシーンが頭に浮かぶのです)。

価値、善悪、やる気、やりがい、意志。
これらには前提が必要なわけです。つまり、価値のあると思うから、あるいは少なくとも悪くないことだと思うから、積極的にやろうという意志を自覚し、やり遂げれば達成感も感じられる。が、それには、やろうとしている行為の対象に、「現実感」がなければならない。「現実」に価値があるから、価値があるのです。夢の中で億の金を手に入れても、意味がないでしょう。(これにも異論があるかもしれませんが、ここではスルー)。

「価値観」や「意志」が「幻想」で、「現実」はすでに何もかも決定している

これではやる気を出しようがないし

「現実」は決定済みかどうかわからない。なぜなら、「現実」は「不可知」だから

でも、依然としてやる気は出しようがない。
どうしてもやる気を出すには、

「現実」は「決定済み」ではなく、私の「選択」次第で、現実は変わりうる。しかも、その「選択」も「選択の主体」も、確かに実在するものだと、納得できなければならない

でなければならないのでした。というわけで渡米したわけですが、留学までして学んでいった「心理学」も、上記の「~でなければならない」に対して、非常に冷酷なものだったのです。

この話は、来週以降に回しましょう。