心理ハック
152 ギャンブルを避けて自滅すること
「自己イメージ」という言葉が、私は苦手です。これは、話を難しくしてしまう用語だと思うのです。
ある男性がいるとしましょう。彼は、「自分に自信がない」ので、「女性に積極的にアプローチできない」。こんなことがよく言われます。よくある話のようですが、本当にそのように解釈できるでしょうか?
このような男性のために、ある種の「カウンセリング」が存在します。「自己イメージを改善する」セミナーのようなものです。たとえば「あなたの魅力的な点を、十個書き出してみましょう」といった指示に従って、自己イメージ改善のワークを積むというものです。
行動が精神状態を変えるということはありますので、そうしたトレーニングに有効性があるのはもちろんでしょう。しかし、「自己イメージ」が改善されれば、「女性に積極的にアプローチ」できるようになるものでしょうか? 事がそのような、「実践の問題」となると、私は大変懐疑的です。
そもそも「自己イメージ」とは何でしょう? 私も時々鏡を見ますが、その鏡像は確かに自己イメージの一種でしょう。ですが、他には?
少し以前のことですが、「やる気」ということになると、何かと「自己イメージ」という言葉が飛び交った時期があります。心理学は流行の世界、といった趣がありますから、共同幻視、グリム童話、パラノイア、アダルトチルドレン、共依存、セルフイメージ、ADHD、不登校、サイコパス、ゲーム脳等々といった言葉が、浮かんでは消える世界ではあります。その中で確かに、「傷ついたセルフイメージを回復させてあげれば、やる気は出るし、鬱も治る」といった主張が、かなり強く押し出された時代もありました。
私自身は、「セルフイメージ」を向上させることが本当にできるなら、それは確かに結構なことではあるけれど、たぶんそれは、「やる気」を出すこと以上に難しいことに思えます。問題は、「傷ついた自己イメージ」もさることながら、「ギャンブルをできるだけ避ける、可能であればゼロにしたい」という無理な願望を持たないことだと思うのです。
なぜ、ギャンブルと自己イメージが関係するのか?
私は、大いに関係すると思います。上記の「ある男性」の話に戻るなら、この男性の「特徴」は、「女性にアタックしたとして、失敗して傷つくのが怖い」ところにあるのではありません。それはほとんど全ての正常な男性に当てはまるので、何ら「特徴」と呼ぶには価しない言い分です。そうではなく、この男性の少々特殊なところは、「自分がアタックしたとして、絶対に失敗するはずだ」と心のどこかで感じている点です。その点を、「自己イメージが低い」と評されるわけです。
話は続きます。そのような男性が、「自分は絶対に失敗する」と思っているから、では「絶対に女性にアプローチしないか?」と言えば、そんなことはありません。よく観察していればわかりますが、こうしたことを言っている男性でも、「もしかしたら・・・」という気持ちはちゃんと持っていますし、「可能性に賭ける」こともするのです。ただし、「結局は失敗するはずだ」という変な確信を抱きながら。
この、後生大事に抱えていても、何の得にもならないような、「結局は失敗するはずだ」という確信こそ、当の男性にとって捨てがたいものです。傍目からは奇妙に見えますが、おそらくそうした男性は、意中の女性とうまくいくぐらいなら、「結局は失敗するはずだ」という確信をもっと深めたいとさえ、しばしば思うようです。そこまで行くと、ややマゾヒズムですが、「女性とうまくいっている間」は、「自分は結局破局してしまうのでは?」という不安を抱え続けなければ、なりません。その不安は、「結局破局してしまった」時に、消え去ります。それで最終的には、自分で破局を作り出そうとするのです。
確かに「自己イメージが問題」ではあるでしょう。しかし、私にはそれが一番大事な問題とは、思えないのです。そうではなくて、ギャンブルは本質的に「不安」を生じさせる行為であり、そして人生からギャンブルを取り除くことは、決してできないのだという、当然の事実を絶対拒否しようとするところから来る、自己矛盾こそが問題だという気がします。
不安とは、生命を脅かす、モロモロの不確実性であり、家を建てても地震で壊れるかもしれないし、仕事を仕上げても上司に却下されるかもしれないし、手を洗っても食中毒になるかもしれないし、右見て左見て右を見ても、暴走車に轢き殺されるかもしれません。もちろん、女性に笑われるかもしれません。みな「不確実性」であり、「不安の種」です。それらがゼロになるはずがありません。どんなに文明が進み、通貨レートを安定させ、食糧供給を拡充し、天候デリバティブを導入し、性格マッチングによる出会い系システムを設定しても、やっぱり不確実性をゼロにはできません。
不安をゼロにして生きようとすれば、生活からギャンブル性を全て取り除かねばならず、それを実現する唯一の方法は、全てに失敗してしまうことだけです。「失敗」が実現すれば、「失敗する不安」からは逃れられるからです。「何か」が不安だということは、少なくともその「何か」が、まだ起きていない状態なのです。
不安を抱えること自体を拒否しようとする人は、したがって、自滅的な行動を取ることになるでしょう。異性にはあえてフラレるようなことをするでしょうし、あえてダイエットをだめにしようとするでしょうし、あえて投資で失敗するでしょう。
私は留学先のアメリカで、そんなパラドキシカルに陥って、撤退していく人を、何人か見てきました。五百ページもあろうかという、分厚い英語の教科書を渡されると、私たち日本人は絶対に不安になります。「読み切れるのだろうか?」という気持ちになるのです。これは当然です。
そして次にとる自滅的な行動が、「読まずに先延ばしにする」ことなのです。手渡されたその瞬間から読み出しても、読了できるかどうか不明なものを、先に送るのは完全に自滅的なやり方です。「その瞬間から」読み出せる人と、どうしてもそれができない人の違いは、私が見たところ、ほんのわずかな違いでしかなく、決して「英語力」の違いなどではなく、「自己イメージ」の問題ですらなく、「読めないだろう・・・が、万が一ひょっとして、読み始めれば、読めるかも、しれない」と思えるか、「読めるはずがない」と思うかの違いだけです。
「読めるかも・・・しれない」と楽観的にも考えた人の全てが、一冊を見事読了し、Aの単位が取れた、というわけではないのです。場合によっては、単位を落とすこともありました。しかし、「読み出す」ことに成功した人は、何らかの形で大学を卒業していきます。一方で、「読めるはずがない」という思いに取り憑かれてしまった人は、その後数年にわたって、その思いに取り憑かれたまま、ほぼ一冊の英書も読了できず、帰国することになりやすいのです。
不安を抱えることを受け入れられない人は、不安を抱えずにすむ唯一の方法、すなわち「失敗を受け入れる」しかなくなります。「こんな英書を読むことが果たして自分に可能なものであろうか?」という、至極まっとうな不安感を拒否するということは、ギャンブル(一か八か読んでみる)を避け、「もちろん読めるはずもなかったのだ」という現実を受け入れることで、ようやく「不安ではなくなる」のです。






