ライフハック心理学

心理ハック

161 知覚と感覚の狭間で

まだまだわかっていないことがたくさんある現象なのですが、「盲視」と呼ばれる障害があります。

一般には、脳の中の視覚に関する「感覚」に損傷を受けてしまって、「何も見えなく」なってしまうという障害です。視覚感覚を失うのですから、私たちが持っているような「視覚イメージ」を持つことができないと推測することもできます。「世界像」がなにもないのです。議論の余地は残ります。しかし、このエントリではこの線に沿って話を進めさせていただきます。

進化心理学者のニコラス・ハンフリーは、「感覚野を失ったサル」を見て、奇妙なことに気がつきました。そのサルは、「まるで何かを見ている」ようだったのです。視覚感覚を形成するための脳が機能しないのに、何かを「見る」ことができるとは、どういう事なのでしょう?

ほんの少し前まで、私たちはみな、「目の前にある像(椅子なら椅子、机なら机、ノートならノートを)」から「やってくる光」を、目という感官を通し、光刺激を脳内の神経の興奮へとチェンジし、神経興奮から視覚イメージを作る。それが「見る」ということなのだ。と、かなりおおざっぱに考えていました。(当時から異論は多々ありましたが)。

こういう考え方ですと、「視覚感覚」が作れないということは、すなわち「何も見えない」ということにならなければ、なりません。しかし、ハンフリーは、「視覚感覚」がないサルが、「何かを見ている」ように見えたのです。そこで彼は、そのサルを訓練してみました。

ここには面白いエピソードがたくさんあるのですが、今は結論を急ぎます。ハンフリーは「視覚感覚を形成できないサル」に訓練を施すことで、「モノを見る」ことができるようにしてあげたのです。確かにそのサルは、「視覚感覚」を形成するための脳を持っていないにもかかわらず、部屋の中で障害物を避けたり、必要なモノを「手に取る」ことができるようになりました。

これは、「慣れ」の問題ではありませんので、誤解なきよう。この話のすごいところは、まるで私たちで言えば、「初めて訪れる真っ暗な部屋」の中で、「モノが見えている」のと同じように振る舞える、というようなものです。ほとんど超能力です。

一体そのサルには、何が起こっていたのでしょう?

サルでは、自分に何が起きているか答えられません。しかし、その後人間でも、「視覚感覚野」の一部が機能障害を起こしているだけであれば、同じように訓練によって、「あたかもモノが見える」かのように振る舞うことができることが、分かりました。と言うよりも事実、彼らにはモノが見えているのです。中には、「色の見分け」ができる人すらいました。「視覚感覚」を持たないのにです。

想像してみてください。あなたは真っ暗な部屋で目をつぶっています。「想像の図」も何もありません。真っ暗です。その目をつぶっているあなたの前に、黄色い折り紙を見せます。あなたにはもちろん、黄色は見えません。折り紙も見えない。真っ暗です。でもあなたは「目の前に黄色い折り紙がある」と答えることができるのです。

もっと奇妙なことに、この「訓練された盲視の患者」さんたちは、「自分は以前として目が見えない」と信じていたのです。「目の前にあるのは、黄色い折り紙だ」と答えることができても、それが「見える」とは信じませんでした。彼らは、「当てずっぽうを答えただけだ」と言ったのです。

この奇妙な現象を説明できる1つの解釈は、「無意識」です。つまり少なくとも「盲視」の人たちは、「目の前にあるモノ」に対する「知覚」は、無意識のうちに行うのです。彼らにないのは、「視覚感覚」であって、「知覚」はあるのです。しかし、ここが大切なところですが、人は「知覚」だけがあっても、そのことには気づかない。「感覚」があって初めて、「自分は目が見える」と感じるわけです。

この話は簡単ではないので、数日に分けます。ただし、注意深い人ならばすぐに気がつくとおり、先日のエントリ、「現象学」と深い関係があります。

私はこの「盲視」の話から最終的に、基本的に「意識」というものは、「感覚」と「知覚」が主要な構成要素だが、「知覚」に偏り「感覚」に注意を向けなくなっていくと、生活や仕事がつまらなくなって行くに違いない、という方向に話を持って行く予定でいます。「退屈」とは、「意識」が「知覚」に偏り「感覚」がないがしろにされつつある状態だと、考えるのです。

「盲視」の人には、モノが見えていました。しかし、「見えているモノ」に注意を払おうとしませんでした。私たちは、「それが何であるか?」を「知覚的」にとらえるとき、ほとんど無意識にやってしまい、それに興味も持たないようなのです。一方で、「感覚的」にとらえるときには、こだわり(すなわち「気づかい」)があります。

この話は、明日に続けさせていただきますが、「退屈」から逃れるために、私たちにできるのは、「意識」を「知覚」寄りから「感覚」寄りへと、シフトさせることだと思います。

  • はてなブックマークに登録
  • このエントリーを含むはてなブックマーク

160 心理哲学と「うつ」

私は精神科医ではありませんから、そのつもりでお読みください。

エドムント・フッサールという哲学者が提唱した概念に、

コギト――コギタチオ――コギターツム
(意識――意識作用――意識内容)

という考え方があります。用語があまりに「ヤーゴン」(難渋な専門的用語)過ぎると思われるでしょうが、とりあえずそういう言葉もある、くらいに思っていただければと思います。

フッサールの「現象学」はこのブログでも、たまさかに取り上げてきており、本当はもっと取り上げたいところです。以前(2006年05月30日)私は、「普遍の表現」というエントリで、「現象学」についてさわりだけお話ししたことがあります。

例えば私達は、リンゴを見ているとき、見ているときは味わっていませんし、そもそも「見える」のは「リンゴの一部」ですね。リンゴ全体を「見る」ことは難しいし、まして「この世にある全てのリンゴ」を体験することは出来ません。なのに私達は、リンゴを見ているとき、自分はリンゴを見ていると思うのであって、見えない後ろ姿は、ミカンかも・・・などとは思いません。これも「普遍の表現」というトップダウンのなせるわざで、これを手品では利用します。

http://www.month-psy.sakura.ne.jp/blog/2006/05/post_51.html

最近になって、大脳生理学者の研究成果などから、フッサールの「現象学的主張」が徐々に再評価されつつあるのではないか、と感じています。「クオリア」など難しい問題を多々含みますが、「経験」というものについて内省してみますと、私には、「経験の素材」と「その連続的提示」と「その志向的統一」という説明が、かなりいい線をついているように感じます。

「リンゴ」はあまりよい例ではないので、「本」にしましょう。私たちの身の回りには、非常にたくさんの「本」があります。雑誌もマンガも文庫本も、みな「本」です。しかし、本屋さんならともかく、自室に「同じ本」が何冊もあるでしょうか? 私は物書きが職業ですから、「同じ本」が山とあって、うれしくないのですが、ふつうの人の場合「本」は何冊あっても、全部違う本でしょう。

ぜんぶ違っても「本」は「本」です。「本」とはなにか? 私たちはよく知っています。そうは言っても、それを厳密に言葉で定義せよと言われては、困ります。このことは、「本」でなくとも、たとえば「人間」でも、「ジュース」でも、何でも当てはまります。

話をもう一度「本」に戻します。私は今目の前に、拙著をおいて眺めていますが、そしてそれが「本」であると信じていますが、「信じている」だけです。表紙が閉じていますから、中身は見えませんし、中身は真っ白かもしれません。誰かがいたずらしていれば、それもあり得ないことではありません。幻覚を見ているかもしれません。(作家になりたいという、あらぬ欲望の表出かもしれません)。しかし、そうではないと思っています。「本」だろうと信じているのです。

要するに、「本」の知覚は、一瞬一瞬、あたかも連続のスナップショットのように、私の「意識の内部」で現れ、現れ、現れ続けています。その「スナップショット」は、本の表紙のイメージばかりですが、それをずっと眺めながら私は、「本の表紙を見ている」とは感じないで、「本を見ている」と感じています。厳密には不正確ですが、私の精神が「正常」だから、当然できることだとも言えます。

私には、他の誰にもあるように、「本とはこういうものだ・・・表紙があって・・・ページがあって・・・四角くて・・・軽くて・・・手で持てる大きさで・・・」という断片的知識があります。重要な点は、「本を見る」という行為を始めた瞬間、それらの断片的知識が、一斉に集まって、「統一」するという点です。おなかのすかせた小魚の群れに、エサを落とすと、わっと集まってきますが、ちょうどあんな風に、「本を見る」という行為を始めたとたん、「本」にまつわるありとあらゆる精神的な働きが、一点に向かって集中するのです。

小魚の群れがエサにわっと集まるように、私の意識は「本を見る」という行為へ向かって、「志向的統一」へ向かって、作用しているといいたいのです。「本を見ている」間、私の「本を見ている」という「意識内容」は、「本を見るという知覚を形成する」活動を続けていると言ってもいいでしょう。あまりにも、ややこしい言い方ですが。

これがややこしいのは、ある意味「知覚」が正常に成立してしまっているからです。逆を考えてみましょう。「本を見ている」にもかかわらず、「本の知覚」に関する断片的知識が、「統一」しようとしなかったら、どうなるでしょう?

こうなるはずです。部屋にある全ての、私たちが「本だ」と感じるものも、その人には全部が全部、バラバラなものに思えるでしょう。一冊の本を見ても、「私は本を見ている」という統一した経験とはなりえず、毎瞬、毎瞬、毎秒、毎秒、連続的に「本の表紙というスナップショット」を眼前に、絶え間なく突きつけられ続ける。そんな感じがするでしょう。これは大変な状態です。ちょうどなにか、ディスコのライトが、高速にチラチラするような感じに、「本の表象イメージ」が連続して意識に現れる。しかし統一されないのです。おそらくこうした精神障害は、実在するに違いありません。

「心理哲学」という分野が、ようやく最近になって、アメリカで活発になり始めました。精神障害を持つ人、特に「うつ病」の人にとって、この分野が重要になってくるのではないかと、私はよく考えるのです。薬理やカウンセリングや、脳手術でさえ、現在は非常に発達しましたから、それらが有効なのは間違いないのですが、「うつ病」にはまちがいなく「哲学的問題」が関係していると思えます。「私には生きる価値がないような気がする」といったような表現は、生育歴や脳内神経伝達物質の過剰や枯渇のみならず、生に対する本質直観といった問題と、無関係とは思えません。

宗教があるではないか、と、指摘される方もあるでしょう。しかし、「宗教」か「薬理」かという選択肢は、いかにも極端です。(自分自身の)いささか病的な心理状態に対する「知的アプローチ」として、「哲学」は重要な位置を占めるはずです。私自身にとって、かつてそうだったのです。

  • はてなブックマークに登録
  • このエントリーを含むはてなブックマーク

159 心が脳を変える

『心が脳を変える』とは、ジェフリー・シュウォーツとシャロン・ベグレイの共著『THE MIND AND THE BRAIN』の邦題です。

心が脳を変える―脳科学と「心の力」 心が脳を変える―脳科学と「心の力」
ジェフリー・M. シュウォーツ シャロン ベグレイ Jeffrey M. Schwartz


Amazonで詳しく見る
by G-Tools

私はこのタイトルが、そのまま一種の警句になっていると思います。あまり「心脳一体」に傾きすぎると、自分でコントロールできることも、できなくなってしまう気がするのです。

脳は決して、それほど堅いものではありません。触ったことのある人はご存じの通り、やわからめのクリームチーズといったところでしょうか。それが刻一刻と、わずかずつとは言え変形・変質するのですから、人によって、考えることによって、思い出すことによって、全然違ったものに変わっていく、そういうもののはずです。

『心が脳を変える』には、非常に考えさせられるエピソードがあります。「手を洗うのがやめられない」ような強迫神経症の患者さんが、「強迫行動を生み出す神経メカニズム」をしっかりと理解することで、自分の行動を抑制できるようになっていくのです。

「手を洗うのがやめられない」理由は、決して、「マクベス」の夫人のように、「汚れが落ちない」と思いこんでいるせいではないようです。手の汚れが十分に落ちているのは、少なくとも言葉の上では分かっている。しかし、そうは感じられないというのが、洗って、すぐまた洗いに戻ってしまう、という繰り返しを呼ぶ原因のようです。

大脳生理学では、このような「衝動」を促してしまう原因は、脳の一部が故障して、「何かちょっとおかしい」というシグナルを、意味もなく断続的に発し続けているせいだと、説明します。校正作業をしていると、自分の文章を読んでいて、誤字を発見し、「ん?」と思います。この「ん?」を止め処もなく脳が発し続けるため、

ん? ん? ん? ん? ん? ん?
 ん? ん? ん? ん? ん?
 ん?

という精神状態になってしまうのでしょう。こうなると「何かをなおさなくてはならない」という思いが募り、その一つが、「手に付着しているかもしれない、ちょっとした雑菌を洗う」という行為になってしまうのでしょう。

そこで著者は、強迫神経症の患者さんに対して、「あなたの「手を洗わなければ」という思いは、脳の機能障害のために、不適切に発されている「ん?」のせいなので、妥当性を欠いている」と、説明してあげることにしました。すると患者さんは、「私は、そんな必要などないと知っているのに、手を洗うのがやめられない」と思うかわりに、「私の脳がエラーを発しているせいで、今、私は手を洗わなければという衝動にかられているが、そんな必要はまったくないのだ」と解釈することができたそうです。そうすると、「手を洗う」という脅迫行動を、ストップさせることができた、というのです。これが本当だとすると、人間の「心」の非常に重要で面白い機能です。

私はこのエピソードは、強迫神経症だけではなく、やる気のなさや、悪癖を断ち切るという問題についても、応用がきくと思います。ポイントは、「何かをしろ(あるいはするな)と「脳」は言っているけれど、それは脳の機能に故障があるからであって、本来そうする必要などないのだ」とはっきり知ることなのです。もちろんこれは、「脳」が「私」の一機能だから言えることであって、「脳」=「私」ならば、できないことです。それだから、「心が脳を変える」(ことができる)という指摘は、大事だと思うのです。

  • はてなブックマークに登録
  • このエントリーを含むはてなブックマーク

158 「習慣」と「マスター」の違い

・・・何らかの行動パターンを習慣として獲得することと、ある技術を習得することは、同じではないということだ。たしかにある種の技術は、ただ繰り返すうちに自然とマスターされてしまう場合もある。その場合には、習慣と仕事を覚えることとは、ほぼ同義になる。しかし、英会話のレッスンを習慣化したからといって、英会話ができるようになるとは限らないし、毎日ピアノを弾く習慣を付けることと、ピアノが弾けるようになることとは違う。

佐々木正悟『ライフハックス鮮やかな仕事術―やる気と時間を生み出すアイディア

これと同じ内容を、以前にもこのブログで述べたことがあります。上記の引用は、拙著『ライフハックス鮮やかな仕事術―やる気と時間を生み出すアイディア』からの引用ですが、第五章の終わりの方でとりあげ、詳しく書き込んでみました。それでも、もっと強調しておいてもよかったかもしれない、と思っています。

時に世のマニュアル本をめくっておりますと(私はそういうものを「読む」のが好きなものですから)、「良い習慣を身につけること」と、「必要な技術を習得すること」がごっちゃになってしまっていることがあります。かつて日本に広く行き渡っていた、「根性でもって倦まず弛まず繰り返すに優る、技術習得の道はない」との信念からか、「繰り返せばできるようになる」「回数を重ねたものが最強だ」という思考が、自然に成立してしまうのでしょう。

「読書百遍意自ずから通ず」などとも言います。

けれども、習慣をつけることと、技術を獲得することは、本来別のことです。繰り返すことで獲得できるのは、繰り返すという習慣であって、技術ではありません。習慣をつけたいのか、技術を獲得したいのかは、事前にはっきり区別しておく必要があります。

技術を獲得したいのであれば、習慣を「つける」ことは不要かもしれません。自動車の運転を「身につけて」しまった人が、「毎日三十分、自動車に乗り続けていないと、腕が鈍るから」とは考えないものです。レーサーのような人は、もちろん別でしょうが。

習慣それ自体が目的である、という場合もあります。その場合、やみくもに技術の向上を願うのも、考えものかもしれません。たとえば、私は泳ぐのがわりあい得意で、以前はスピードアップだけを目標としていたことがあります。しかし、もし健康のために水泳を続けるのであれば、毎日0.01秒でもタイムをアップしようとするのは、むしろ有害です。続かなくなりますし、怪我をすることもあるからです。

習慣、つまり毎日同じ営為を繰り返すということと、技術獲得、つまりできなかった何かができるようになることの、どちらを目標とするかによって、同じ毎日「繰り返す」のでも、繰り返し方を変えなければなりません。

前者の「習慣」の場合、問題は「やめてしまう」ことにありますから、ペースをつかむことや、時間を確保することや、サボりたいという気持ちとの戦いになります。後者の「技術」の場合には、問題はできるようになることにあるのですから、色々なやり方を試していかなければなりません。その場合戦う相手は、サボりたいという気持ちと言うより(一日や二日サボるのは、問題ではありません)うまくいかずに挫折してしまうことです。

付け加えますと、両者ともに最大の「敵」は怪我や病気でしょう。

  • はてなブックマークに登録
  • このエントリーを含むはてなブックマーク

157 「ヤーキーズ・ドットソン」とプレゼンテーション

http://www.mhhe.com/socscience/intro/ibank/ibank/0109.jpg

この図を見てみてください。

拙著『ライフハックス鮮やかな仕事術―やる気と時間を生み出すアイディア』の第二章で紹介した、「ヤーキーズ・ドットソンの法則」を図示したものなのですが、本の中では省いてしまったポイントがありました。

「ヤーキーズ・ドットソンの法則」自体は単純な法則で、活動には最適な興奮状態がある、というだけのことです。あまりに油断していてもダメ、あまりに興奮していてもダメです。これは、プレゼンテーションのことなどを考えれば、わかるでしょう。

特にプレゼンテーションなどにおいて、人前ではどうしても緊張してしまう、という方には、この「ヤーキーズ・ドットソンの法則」が非常に有効です。

緊張感それ自体は、悪いことではありません。問題なのは、「頭の中が真っ白になる」ことです。そうなると、何も思い出せず、何も考えられなくなってしまいます。この状態に陥りますと、作動記憶にあるごく少数の記憶や情報に頼らざるを得なくなるため、自分の口から、繰り返し同じ言葉ばかりが口をついてしまいます。

「ヤーキーズ・ドットソンの法則」の中で、私が本に書いておかなかったポイントというのは、難しい仕事の場合には左シフトが起きやすく、簡単な仕事では右シフトが起きる、ということです。こんな説明ではわかりにくいでしょう。実際には、簡単なことです。仕事が難しいと、すぐに緊張感が高まってしまう、ということです。

上がり症の人にとって、プレゼンテーションは「難しい仕事」です。当然、緊張レベルはすぐに上昇していきます。そこでですが、緊張状態が上昇すること自体は、悪いことではありません。すぐに緊張状態が上昇すれば、すぐに「最適レベル」まで行き着きます。ポイントはそこです。

「最適レベル」で緊張感がとどまればいいわけです。それ以上行ってしまうから、膝がガクガク言うのです。そんな、膝がガクガク言う状態でも、それでもうまくプレゼンテーションをこなすためには、プレゼンテーション自体が、「優しい」内容であればよいわけです。

もしもあなたがあがり症で、しかもプレゼンテーションをどうしてもしなければいけないときには、内容をうんと優しくし、メッセージをうんと少なめにし、それを繰り返し述べるだけですむように構成することです。それなら、「頭が真っ白」でもやれるでしょう。繰り返し述べる優しい内容であっても、当日のあなたは「七歳児並み」になってしまうことを考慮して、内容を完全暗記するくらいでちょうどよいでしょう。それほど優しければ、「過剰な緊張状態」でも、それがちょうどよい緊張レベルとなります。

そんなでは、内容が寂しいということであれば、補完するために、余った時間を質問タイムに回します。質問に答えると言うことは、自分だけで話すのよりも難易度が下がるはずです。そこまで行き着けば、そろそろ色々なことを「思い出す」ことができるようになっていて、意外に積極的に話を始める気になるはずです。

  • はてなブックマークに登録
  • このエントリーを含むはてなブックマーク

«次の記事  前の記事»

  • Googleに追加
  • はてなRSSに追加
  • Livedoor RSSに追加
  • My Yahoo!に追加