ライフハック心理学

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166 Realforce91U カスタマイズキーボード for ATOK

 株式会社ジャストシステムは、ATOK機能へのショートカットキーを備えたオリジナルキーボード「Realforce91U カスタマイズキーボード for ATOK」を同社直販サイト「Just MyShop」で発売した。価格は19,992円。

 “ATOKキー”と呼ばれるキーを装備したジャストシステムのオリジナルのキーボード。本体右上のPrintScreen、 ScrollLock、Pauseキーのそれぞれに、ATOKでよく使われる「単語登録」、「お気に入り文書」、「ATOKメニュー」へのショートカットの機能を割り当て、ATOKがONの状態で、実行したいキーを押下することで機能する。

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/1219/just.htm

以前このブログで、「私の場合ですが、キーピッチが19ミリ以上だと、ほとんどキーのことを意識せずに打てる」という意味のことを書きました。19ミリといえば、もうほとんど2センチ。ごくごくありきたりなブラインドタッチの能力です。

個人的な話を続けますと、17ミリを切った辺りから、私ですとかなり苦しくなります。一応16ミリでも、何とかブラインドタッチはできますが、キータッチへの注意量がとても大きくなるとともに、ミスも非常に増えます。誰もが経験することですが、注意量が増えるにしたがって、ミスも増えることはよくあることです。

仕事を効率化するために、キーボードとかマウスとか、比較的地味で一番手元に近いインターフェースを変えてみると、思わぬ効果を得られることがあります。つい先日、「観測気球」さんの「ソーシャルブックマーク管理ツール」というツールを使わせていただいたおかげで、これまで「はてなブックマーク」で先送り続けていたタスクを一掃できました。

特定のツールだの方法を見つけただけで、ずっと手もつけられなかった仕事を一掃してしまうといったことは、これまでにもときどきありました。「ATOK」も「キーボード」も「単語登録」も、かなり「手元に近いツール」なので、ストレス軽減や効率化のために見直すことの多い部分です。

ところで、「注意量が増えるにしたがって、ミスも増える」と今書きましたが、意識の上ではそんな風に感じられるものの、実は逆かもしれません。「ミスが増える、もしくはミスが増えそうだから、注意量が上がる」のかもしれません。その方が、脳の働きとしては合理的です。

キーボードのブラインドタッチを覚え込むのは、主に小脳が担っているのでしょうが、小脳はミスをなくす方向で技術を記憶していく器官です。それだけではありませんが、それが今知られているメインの機能です。ということになると、少なくとも小脳を鍛える意味で、ミスをしまくってみるのも、悪いことではないわけです。精神的にはストレスフルですが、たぶんそのストレスがそもそも、技術記憶に有効な意味を持っているのでしょう。

そういう意味では、私ももっと16ミリキーボードに挑戦してみるべきなのかもしれない、とときどき思います。けれども実際に触ってみると、どうしても嫌になってしまいます。ただ、中学生の頃には、2センチのキーボードでも一本指打法だったのですから、それに比べればミスだらけのブラインドタッチにせよ、ずいぶん進歩しているわけです。16ミリも、苦しみながら一年やってみて、今現在の19ミリキーボードのように扱えるなら、モバイルPC選択肢の幅が非常に広がるわけで、今のところ思案中です。

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165 大人になると、なぜ1年が短くなるのか?

大人になると、なぜ1年が短くなるのか? 大人になると、なぜ1年が短くなるのか?
一川 誠 池上 彰


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という本を、見つけました。ただしまだ、未読です。
本ブログのテーマに合致するために、目にとまった次第です。

「なぜ?」と考えてみると、すぐに思い浮かぶのは、「退屈」です。「退屈な時間は長く感じる」というのは、おそらく皆さん経験済みでしょう。そこで、

・大人になると、なぜ1年が短くなるのか?

これを言い換えますと、

・大人になると、1年が短くなるのだ!

という前提があります。
ということは、

・子供の頃は、1年が長く感じられた(のだ)!

ということになるでしょう。そして先ほど挙げたばかりの、

・退屈な時間は長く感じる

ということが事実だとすれば、

・子供は、1年を長く感じている。1年を長く感じるのは、1年を退屈な時間だと感じているからである

ということになりますから、

・子供は退屈な時間を、たくさん過ごしている

という結論になるでしょう。
著書『大人になると、なぜ1年が短くなるのか?』ではそうはなっていないかもしれません。その辺は未読のため何とも言えませんが、私自身は子供時代、確かに今よりも退屈していました。「やることがない」とよくこぼしていたものです。混んだ病院で、2時間も待たされたときなど、地獄です。今ほど、仕事をしたり読書をしたりする、そのための「ロボット」を持っていないからできないのです。

一方で、子供時代というのはある意味では、「あっという間に過ぎ」ます。これはいかにも矛盾するようですが、きっとこういうことです。

・子供は、夢中になれる時間は、大人よりも遙かに夢中になり
・退屈な時間は、大人よりも遙かに退屈する

どうしてかというと、

・大人は、知識と技術力の蓄積により(「ロボット」)、どんな時間でも一定の注意力を保てるように工夫する。病院には小説、雑誌、マンガ、携帯プレイヤー、パソコンなどを持ち込むことで、「注意を払うべき対象がない」(「ロボット」は一定の注意を払う仕事をする)という事態を回避できる。子供は、これができない。

・一方で大人は、夢中になれるどんなことでも、ある程度は経験済みのために、最大限の注意を払ってやるべきことが、ほとんどない。子供の場合、少なからぬ行為は生まれて初めての体験のため(「ロボット」がない)、「はまった」ときの注意力の報われ方が絶大である。

まとめますと、

・大人は何をするにも「ロボット」を持っているから、注意力を一定に保ちつつ時間を過ごす(大きな退屈も熱中もない)
・子供は何をするにも「ロボット」がないため、注意力の増減が極端になる(大きな退屈と熱中を行き来する)

ということになるでしょう。そうすると、大人は「ゼロ」で、子供は「プラマイゼロ」でトントンではないか?
といわれるかもしれませんが、違います。

「大きな退屈」と「大きな熱中」の両方がある子供にとっても、世の中「退屈」の方が圧倒的に多いはず。授業時間と休み時間の長さを比べてみれば、すぐ分かります。

子供はきっと、短い時間夢中になり、長い時間を退屈して人生を過ごしているので、「1年が長い」のです。

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164 チョコチップクッキーは「意識」を持つか?

この問題を最初に提起したのは、誰だか私は知りませんが、結局この問題は「意識とはニューロン(神経繊維)の運動に伴う何か」であるという命題への反応です。ニューロンというものがどんなに精密なものであっても、それが物質であり、その物質の運動から私たちが、「おいしい」とか「恋しい」とか感じている、あの「感じ」が生まれるのであれば、どんな物質からであろうと、人間の脳の中でニューロンが振る舞っているのと、まったく同じように活動させれば、チョコチップクッキーの「組織」が、「意識」を持っても不思議はなかろう・・・そんな議論です。

この議論はどうみても、深刻に哲学的な話になりますが、一番感情的で、シンプルな問題点はこうでしょう。

「私たちは、毎朝かなり大変な苦労をして、がんばって月か水木金と会社まで、ラッシュアワーにお勤めしているっていうのに、その活動と変わらない努力を、チョコチップクッキーの束でも再現できるってこと?」

チョコチップクッキーだとさすがに議論がやりにくいので、これを「ニューロン」に戻します。それなら、人間の脳にあるのとまったく同じニューロンを使い、まったく同じように活動させれば、その「人工ニューロン組織」は「意識」を持つはずだ、と考える学者はかなりの数に上るでしょう。(もっともそうしたアンケートは採りにくいものです。「思想調査」に近いものになるでしょうし、現段階ではまだ、たとえ「そう思う」と答える学者さんでも、続けて「ただし・・・」と付け加え、持論を延々展開するでしょう)。

「人工ニューロン組織」を、愛・地球博の会場で喋っていたロボットに組み込みます。すでにアメリカの研究者によれば、「私は赤い色をみている」と人が告白するとき、その「脳内ニューロンの運動」は決まっていると言います。ということは、「人工ニューロン組織」を組み込まれたロボットに、赤い折り紙を見せたとき、ちゃんと「赤を見ている場合のニューロンの動き」が生じるようにすれば、愛・地球博のロボットでも、「自分は赤を見ている」と「感じる」のでしょうか?

ここでは記憶という問題をほとんど気にしていませんし、どのみち簡略化も甚だしいですが、それでもこれに近いことを信じている人はたくさんいるでしょう。この見方でも相変わらず、昔ながらの「物心二元論」は解き明されていなくて、依然として「ニューロン」という「手にとって目で見ることができる物質」と「意識」という「手で触れたり目で直接見たりはできない何か」というものが、ニアリーイコールだという無理はしているものの、前世紀よりも両者がグンと近づいている感じはします。

けれども私は、なかなかそうはいかない、と思っています。「ラッシュアワーのお勤めの厳しさを超克」するような「意識」を、ロボットが持つことはまずないような気がします。

というのも、私にはニコラス・ハンフリーが指摘した、「意識」が自発的な身体運動と似ている、ということを信じる方に傾いているからです。ハンフリーは、遠くの親友を見てバイバーイと言いながら手を振るように、私たちの「ニューロン」は「手を振る」。それが「赤を見る」という意識を持つようなことだ、というわけです。

私たちは「手を振る」と、「自分が手を振っている」という自覚を持ちます。「笑顔を作る」と「笑っている」という自覚を感じます。「赤を見る」というのも、そういうことに近いと、ハンフリーは言っています。

留学時代、自分は「イメージして得た知覚と実際の体験には、似たような影響力がある」という実験を行ったことがあります。この実験では、もっとも楽しい思い出と、もっとも苦しい思い出を、それぞれ思い出してもらって、感情の揺れ動きを比較しました。するとほとんどの人の場合、楽しい思い出を「イメージする」ことで楽しくなるし、苦い思い出を「イメージする」ことで、悲しくなることがはっきりしました。

当たり前のことかもしれません。しかしこれが当たり前ということは、「想像する(能動的行為)」と「知覚する(受動的行為)」とされていることが、実はほとんど同じだということになります。ということは、「想像する」ことも「知覚する」ことも、どちらも能動的行為だと言うことも、できるかもしれません。

もちろん「現実知覚」と「イメージ」には違いがあります。しかし、共通点も多々あります。何より大事な点は、たとえ「知覚」が何かに対する「反応」であり、「想像」は純粋に自発的行為だという違いはあっても、どちらも「自分がしていること」であることに違いはない点です。ちょうど、親友に向かって「バイバーイ」と手を振る行為は一種の「反応」であるとしても、誰もいないところで「バイバーイ」と手を振ってみることに、行為としてはよく似ているはずだというところです。

この比喩で言うと、たとえば「赤いリンゴ」を本当に見ているときには、私たちのニューロンは「リンゴ」という「親友」に向かって「バイバーイ」と「手を振って」いるのです。その「手を振っている」感じがすなわち、「赤を見ている」という感じなのです。一方で、何も目の前になく、目をつぶって「架空のリンゴ」を頭の中で想像しているときには、「リンゴ」という親友はそこにいないのに、「バイバーイ」と「手を振って」いるのです。それでもやっぱりニューロンの運動のため、「赤を見ている」という感じはあるのでしょう。

愛・地球博のロボットにニューロンを組み込むことが仮にできたとしても、そのニューロンたちに「自発的運動」をさせることが困難です。「赤いリンゴ」を見せたときには、「電気」を流して「運動させる」ことはできるでしょうが、ロボットの肉体は、ニューロンの運動を何も感じはしないでしょう。ちょうど愛・地球博のロボットが、自分の手を振っても、(実際手を振っていましたが)、それを感じていないのと同じ事です。

ここに、自発的運動と連続性という問題があります。私のクチビルだけ切り抜いて、上弦の月のように両端をクリッと上へ向かせても、もはやそれは「笑顔」とは言いがたいものでしょう。笑顔を模した何かに見えるかもしれませんが、少なくとも「私が笑っている」などとは言えないものです。それと同じように、ニューロンそっくりの組織を取り出して、ニューロンそっくりに運動させても、それは何か意識を持つものに似ている感じを与えるかもしれませんが、「意識を持つ者」とは言えないように思います。

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163 忘れてはならないこと、忘れなくてはならないこと

確か、司馬遷の『史記』にあった「警句」だと思うのですが、印象に残った話がありました。次のような文句です。

人には、忘れてはならないことと、忘れなくてはならないことがあります。
あなたが恩義を受けた人。この人たちのことは、忘れてはいけません。
あなたが恩義を施した人のこと。この人たちのことは、忘れなくてはなりません。

これを完全実施するのは、なかなか難しいですが、可能であればこうありたいものです。

それとはだいぶ違う話ですが、私は「仕事の進め方」について、「忘れてはならないことと、忘れなくてはならないこと」を意識しています。

基本的に、1日にできる平均的な仕事の限界量、これは忘れてはならないと思っています。

それから、どういうわけが異常に仕事がはかどった日のこと。この日のことは、速やかに忘れるようにしています。

というのも、たまに朝から調子も巡り合わせも最高で、何もかも劇的に片付いてしまう。そういう日もあるからです。

しかし、そういう日のことを意識に置いておくと、そういう日がやってくることを、心のどこかで期待し、ひどくなると依存してしまうようです。

留学中、これで何度か痛い目に遭いました。原因不明の「高速回転」のおかげで、プレゼンの準備、レポート、ジャーナル読解と、次々に難事業が片付いてしまうのです。

そんな日が一日でもありますと、「自分もついに英語の壁をぶち破ったか!!」などと確信してしまい、その後、見積もりを甘くするのです。たくさんの宿題を抱えているのに、妙にのんきに構えてしまったり。

しかし、「高速回転」に期待して、2~3日作業の空白を置くと、大変なことになります。そこで「元の自分」に戻っているのを発見すると、愕然とします。「高速回転」がなければ、2~3日の遅れが、取り戻しがたいものとなるからです。

「高速回転」を私は、落とし穴だと感じるようになりました。興味深いことに、『まんが道』の中で、藤子不二雄Aさんが似たようなことを描いているのを見つけて、意を強くしました。ペースを崩すのは、きわめて危険。速くするのも、遅くするのも。

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162 「感覚」と「知覚」の狭間で(2)

先日のエントリで、かなり私は伝わりにくいことを題材としました。今日もその続きですが、少し話をおおざっぱにすることで、もう少し簡単にしたいと思います。

私たちは何を見るにせよ、「知覚」と「感覚」が一緒になってやってきます。だから、両者を分離できるという話は、非常に分かりにくいものです。ラマチャンドランという『脳の中の幽霊』で有名な大脳生理学者が、好んで引用する実験に、模造の腕を被験者の右腕の代わりに、被験者の肩口から机の上に置き、被験者の右手は机の脇に隠すと、被験者は模造の手の上に刺激を与えられたとき、その刺激を自分の右腕に受けたと感じてしまうそうです。

たとえば、模造の手に貼ったバンソウコを、ビリッとはがすと、被験者は自分の右腕に痛みを感じます。こうしてみると、「知覚」と「感覚」が分離可能であることが、一応分かります。「知覚的」には、「痛みを覚えるはずがない」でしょう。模造の手からバンソウコをはがしただけと、知覚できるのですから。

しかし重要なのは、「気づかい」です。私たちは、もしもこのやり方で腕に痛みを覚えれば、「痛み」の方に注意を向けるでしょう。このことはまた、1つの刺激によって同時に「感覚」と「知覚」を発生させた場合、人があまり「知覚」の方には興味を持たず、「感覚」に「気をつかう」のが当然だということをよく表しています。ですから、何を見るにせよ聞くにせよ、その「知覚的側面」に注意を集中していけばいくほど、人生が味気なくなる可能性は、あります。

「知覚」と「感覚」が分離的に生じがちな珍しいものとして、時計が挙げられます。たとえば私の目の前に大きな鳩時計があるとして、それが鳩時計でなければならないとか、ボンボン時計の方がいいとか言うとき、私は時計を「感覚的」に見ていると言えます。しかし、それが時刻を正確に表す限り、どんなものでも同じだというなら、私は時計を「知覚的」に見ていると言えるでしょう。

これで子供時代には妙に世界が刺激的に見えるのに、同じ世界を見ているわりに、大人になるにつれ何となく世界の「魅力」が失われていくわけが、分かるようです。子供は世界を「感覚的」に眺めます。他のやり方をほとんどマスターしていないからです。「感覚的」とはすなわち、現在時制で、個人的です。「今」「その」時計を見ているときだけに、「感覚」は現れます。「感覚」は「私」とともに現れます。目をつぶれば「目の前の時計」は消えてなくなります。

しかし目をつぶっても「時計」はそこにある。「世界」もそこにある。消えてなくなるはずがない。「世界」は「私」から独立して存在している。と思わせているのが「知覚」です。すなわち「私(たち)と無関係に存在する客観世界」という錯覚は、「知覚の誕生」とともに始まったのでしょう。この「知覚」に寄り添って生きている人は、非常に強い自我意識なしには、やっていけません。なぜなら、「世界は私と関係なく独立している」ということは、「世界に、私など居ても居なくても同じだ」という思いを連想させやすいからです。

「感覚世界」はふつう「私」をそういうひねくれた気持ちにさせることは、あまりありません。なにしろ「感覚」というのは「私」が居なければなくなるのです。「感覚」は全て「私の感覚」なのです。

ニコラス・ハンフリーは「脳による感覚の私物化」という、とらえようによっては隠微で面白い表現を好んで使いますが、私たちはこと「感覚」に関する限り、確かにこういう主張をしたがるところがあります。「人の心が分かるなんて言う人は嫌いです」とか「僕の気持ちが分かってたまるか」という類の主張ですが、この主張の根底には、「今のこの私の感覚の、奥深い、微妙な心のひだまで理解し、感じ取っているのは、世界中で、いや宇宙の中で、この私だけなのだ!!!」という「感覚」があるからのようです。

その「個人的」な「感覚」を「正確に」説明しようとするとき、例の「言葉の不十分さ」というものがやり玉に挙げられます。たとえば大好きなカフェラテについて語るとき。「このね、なんとも言いがたい、この、微妙な、甘さだけじゃない、分かってもらえないかな・・・」という「描写」になりがちです。「私から独立した客観世界」について説明するための「言葉」は(「このカフェラテは冷たい」=万人向け)、「私だけの感覚」を描写するのに、原理的に向いていないのが、こういう事態となって現れるわけです。

言うまでもなく、「感覚」にはこれほどのこだわりがあっても、「知覚」にはほとんど見向きもしないのが、人間です。それは当然でしょう。「私だけの感覚」「私だけのこだわり」「私だけが知っているあの微妙なかぐわしさ」に比べ、「私から独立した世界」なんて、どうでもいいと思うのが人情です。

実に今から三百年以上も昔、フランス革命時代のイギリスにおいて、詩人ウィリアム・ブレイクはすでにこのことを詩に書いています。五感による「感覚の私物化」を揶揄したような、不思議な詩です。

五つの窓が洞窟の人間を照らす。一つの窓からは空気を吸い
一つの窓から天井の音楽を聞き
一つの窓からは蔦がのび、葡萄を差し出す
一つの窓からは、成長してやまぬ永遠なる世界のかけらが見え
一つの窓からは、いつでも好むがままに出ることをえる――
しかるに人は窓より出ることなし
盗みし喜びは甘美、密かにはむパンは美味なれば

『ウィリアム・ブレイク全集』

おそらく「感情の私物化」を「密かに」愉しんでいるのは、人間だけではないでしょう。トリ、特にツバメのような飛ぶのが得意なトリは、どう見ても飛んでいるとき「得意気」です。脳はそれ自体、成功を喜ぶ場所を持っていますし、小脳(運動のバランスを取る)が人間の六倍も発達しているというトリが、飛ぶのに成功して「うれしくない」はずがありません。

しかし、「感覚の私物化」を「盗む喜び」がどんなに甘美であっても、「知覚世界」について没頭(研究、経営、政治)できる人を優遇するのが「人間社会」です。そこで私たちは、せっせと「知覚偏重」へと突き進み「感覚蔑視」の傾向を示しがちなのでしょう。

ですが「知覚世界」に興奮するのは、非常に難しいことです。とりあえず、「大人になる」とどうして、「子供の時代のあの輝き」が世界自体から失われる感じがするのか、理屈として了解いただければ幸いです。

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