ライフハック心理学

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057 『暴力から逃れるための15章』8 脅迫と威嚇

「脅迫は、意思の表れと言うよりは、絶望の表れと言える」

ギャヴィン・ディー=ベッカー著(武者圭子訳)『暴力から逃れるための15章』(新潮社)

みなさんこんにちは。

今日は、脅迫と威嚇の違いについて。短く、簡潔にいきます。
普通なら、脅迫も威嚇も「似たようなもの」と考えられますが、「暴力から逃れるため」という深刻な目的がある場合、「脅迫」は威嚇よりもずっと深刻なもの、と考えます。少なくとも、著書のベッカーはそう考えています。

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056 普遍の表現

アメリカで授業を受けていた頃に読んだ、教科書に、

「私達は、なぜ他人の書いたものを、AならAと、判断できるのだろう。私は夫の書いたAが判別できるのが、我ながら不思議。だって夫のAは、誰がどう見ても、Aらしくはない」

アメリカ人の手書きの英語の汚さといったら!アメリカ人もそう思っていることを知ったのが、この授業の救いでした。

「普遍の表現」という重要な概念があります。この「普遍の表現」のおかげで、AならAと、判別できるのです。私達は、例えば今私はキータッチしていますが、かなりの速度で、「ユビから入ってくる」信号は変化します。それに、キーボードの一部しかたたいていません。しかし、意識の上では、「キーボード全体」が意識されていて、しかもそれは「不変」のままです。これが、「普遍の表現」(←文字に注意)です。

このように、「今、私は何それをしている」とトップダウンからの意識がまずあって、それに応じてボトムアップからの刺激を、適切に処理・当てはめるのです。今私は「キータッチ」しているという普遍の表現がまずあって、それに応じて、ユビからの信号、視覚の端っこに見える、キーボードらしき影、を適切に処理するのです。

この普遍の表現。なんだか、哲学の話に似ていると思いませんか?私は専門ではありませんが、プラトンや現象学の話を思い出します。例えば私達は、リンゴを見ているとき、見ているときは味わっていませんし、そもそも「見える」のは「リンゴの一部」ですね。リンゴ全体を「見る」ことは難しいし、まして「この世にある全てのリンゴ」を体験することは出来ません。なのに私達は、リンゴを見ているとき、自分はリンゴを見ていると思うのであって、見えない後ろ姿は、ミカンかも・・・などとは思いません。これも「普遍の表現」というトップダウンのなせるわざで、これを手品では利用します。

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