心理ハック
205 新連載・心理哲学談話-Mental Philosophy Logue-008
法則が絶対的なものではないという考えは、ある意味では、せっかく手に入れた法則という「知識」にも、確実に頼ることはできないという不安を生み出しますが、そうは言っても自分の未来が、確実に決定されているわけではないという、「選択の余地」をもたらします。これは実際には「選択の余地」と言うよりは、「努力を払う甲斐」のようなものです。
しかし、「法則が決定的ではない」という観念の「決定打」となったのは、私に関する限り、アインシュタインの相対論を「理解した」瞬間でした。厳密に言えば、相対論の理解と言うよりも、相対論を理解するためには、どうしても納得しなければならなかった、「客観時間の崩壊」です。
「宇宙の時間」というものを「最終的に決定している大時計」というものが、世界のどこかでカチカチとなっているとします。そんなものを思い浮かべていたわけではないのですが、要するに一切の問題は、それでした。その時計が、秒針、あるいは一万分の一秒刻みに進むたび、世界はその分だけ、変化するというわけです。
世界の進展がすでに決定済みなのであれば、「最終未来」からビデオテープの巻き戻しボタンを押してやれば、世界は少しずつ元に戻っていくでしょう。テープはイチからやり直しです。もちろん、湾岸戦争もイラク戦争も、全部1からやり直しです。私自身の誕生から死亡までも、それがどれほど平凡なドラマであっても、やっぱりやり直しです。
この「宇宙の大時計」と「ビデオテープ」の存在が、私の「努力を払う気力」を奪った観念ですが、(つまりそれは観念なのですが)、相対論の「光速度絶対」によって、両方とも消失しなければなりませんでした。光速を計る限り、光に向かおうと、光から遠ざかろうと、結果は同じになるという、あれです。
私はそれが、なかなか理解できませんでした。(この理解できなかった理由が、そのまま絶対時間という観念への固着だったわけですが)。高速道路で、高次のためにたててある三角ポールは、「猛スピードで」接近してきます。ところが、光のスピードだけは、自分が近づいてようと止まってようと離れていってようと、全部同じに「見える」というのは、実に不自然です。
過去、現在、未来と、コチコチ進む時計のリズムに合わせて、宇宙が少しずつ変化しているという世界観にしがみついている限り、これは理解できない話です。残るは、過去、現在、未来という世界観自体を、捨て去るしかなくなります。
その時に生じたことが、ターニング・ポイントでした。これほど強固な世界観を「捨てる」という場合に心に生じたことは、心ではそれを「世界」だと呼んでいた対象物を、捨て去ることになります。つまり、私が「客観的現実」と呼び習わしていたものは、結局変更可能な(容易にではないにせよ)観念だったわけです。
それ以来、私は「脳の外にある世界」と「脳の中にある世界」という区別を取らなくなりました。代わりに、「私の脳の中にありながら、他人の脳の中にある世界観と、共有可能な世界」と「共有難しい世界」とに分れました。「写真のような世界」は、「私の脳の外に」あるのではなく、「私の脳の中」にあって、おそらくは「他の人の脳の中に」もあるような世界像です。(この言い方にも、どうしてもムリがあるのですが)。
一方で、「ガラスをひっかくときの音が好き」などというのは、私には共有しがたい世界観です。
こう分けてみても、「主観」と「客観」という分け方と、そう違いはないのですが、「人間の脳の外側」に、「写真に写っているような世界」があるという考えを採用した場合に生じる、困った問題を巻き起こさずにすみます。
そしてもう一つ、こちらの方が重要ですが、「私の主観と、親父の主観、どちらが正しい(客観に近い)のだ?」という、どう決着してもあまり気持ちよくない自問自体を、斥けられます。頭の中の世界と、頭の外の世界が、一致しているかどうかを、まして他人のと自分のがどちらが一致しているかなどと問うのは意味のないことで、そこで問われているのは、人類の共有しやすい外界に関する知識と、自分の経験のそれとを、一致させるかどうかだったわけでした。






