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心理ハック

200 新連載・心理哲学談話-Mental Philosophy Logue-007 Clip to Evernote

先週、

脳はどういうシステムによって、「実在」と「想像」を区別しているのか、知りたいと思うようになります。これを明らかにする上で、「神経現象学」ほどうってつけの学問もなさそうだと、私は思ったのですが、実際にはそれはそれで難しいようでした。

と書きました。しかし、私の知る限りまだこの学問分野で、「これ」といった大発見があったとは、聞きません。考えてみると、これは当然かもしれません。fMRIのような脳スキャンを使っても、それによってわかるのは、一定以上の人々の脳の、「統計的傾向」であって、個々人の脳の動きが「目に見えてクリア」になるわけではないのです。

これも私の知る限り、そもそもたとえば「リンゴをイメージする」ことと「リンゴを見る」こととを、心理学的に明快に線引きすることは、いまだにできていません。両者は、非常に似たものだということはわかっています。しかし、まったく同じでないこともわかっています。

ですが、「脳がAという振る舞いをしたら、その人は想像している」とか「脳がBという振る舞いをしたら、その人は知覚している」などと特定はできていないでしょう。

このことを言い換えると、ある人が、「今信号が赤に変わったのは、火星人が操作したからだ」と言いだしたとして、その主張が「おかしい」と判断できるのは、最終的には常識的判断だということになります。

思うに、「常識的判断」という言葉がどうにも信頼度が下がっているのは、「科学」の強い影響です。しかし結局はその「科学」でさえ、「最先端の論理」は、「状況証拠」と「コンセンサス」というやり方を用いています。このやり方に不安や不満を覚えるのは、「客観的事実」という、多くの人があまり好感を持っていないのに、絶大な力を持っている概念のせいだと考えます。

いちばんいい例は、裁判です。裁判ではしばしば、容疑者が「本当に殺人を犯したのか?」誰にもわからない場合があります。唯一の「証人」が「被害者」であったとき、被害者はすでに殺害されてしまっているわけですから、「真実」は容疑者の頭の中にしかないことになります。

私たちの社会が現実に用いている方法は、ありとあらゆる「証拠」をかき集めてきて、それらのすべての「証拠」に、互いに矛盾のないような、一貫した「説明」を与えることです。1つ1つの「証拠」は、疑える限り、疑い尽くそうとします。そこまでやっても最終的に、「完全に事実が明らかに見えてこない」のであれば、「疑わしきは被告人の有利に」ということになります。

この方法は、私は妥当なやり方だと感じますが、そう感じられないとすれば、「客観的事実」という言葉が、非常に力を持っているからなのです。「本当は違ってたら、どうする?」ということなのですが、そうではないのです。

「本当は」容疑者が、殺したか、あるいは殺さなかったか、そのどちらかなのでしょう。しかし、「本当」に私たちが、「行き着く」ことは、原理的にできないことです。目の前に「りんご」があるとしましょう。それが「本当にある」と「決定する」ことは出来ません。できるのは、99.99%、本当にあるはずだ!と、「強く確信する」ことしかできない。間違いである可能性は、必ず残るのです。竹田青嗣風にいえば、かじってみたとしても、「合成リンゴ」であるという可能性を、捨てきれません。

だから私たちは、「事実」に「近づく」ために、「懐疑」を施し、「推論」を積み重ねていきます。たとえば、「火星人が赤信号を操作しているとして、火星人を説明に持ちださなくても、信号が変化することは、説明できる。そっちの信号の仕組みの方は、どうするか?」と自分にも他人にも問いかけることができます。

天動説と地動説でも同じ事です。宇宙に中心があるわけではないので、無理矢理地球が動いてなどないことにして、木星や土星は、その名の通り、意味不明な動きをする「惑」星だと考えてもいいのですが、それよりも地球の方が動いていると解釈すれば、もっと全体像がすっきりした「解釈」にまとめられます。そして、時間がかかってもその「解釈」の方が、人類全体の「コンセンサス」が得やすい。

「だけどそれはあくまで、「コンセンサス」であって、客観的真実ではないんだろう?」という抗議は、好ましくないわけです。誰の「主観」も「客観」ではない。ということは、「主観」から独立した「客観的真実」というものはないのですから、「客観的真実」をたてに「コンセンサス」を攻撃することは、「客観的真実」をたてに「個人の主観」を攻撃することと同様に、不公平だということになるでしょう。

「神経現象学」の考え方から、個人の話に戻しますと、以上の思考を辿ることを繰り返すうちに、私は「うつ」的な症状を脱していきました。「客観的真実」に自分が向かうか、主観の中で夢遊病的に生きていくかという二者択一は、モチベーションを損ないます。しかし、「客観的真実」という観念自体が空想の産物に近いものとなれば、世界は偶然的要素に満ちた場所と考えざるを得ません。

偶然の世界で、選択をするということは、ギャンブルです。個人的な考えでは、ギャンブル性のない世界で生きることが、モチベーションにとって一番有害なので、「あらかじめ決まっていない」という観念を世界に投影できることが、どうしても必要なのです。

つまり、うまくいくのか、それとも失敗するのかは、完全に不明であって、(それは「私」には隠されているが、もっと賢い人や「神様」なら知っているというのではなくて)、原理的に法則は現実に先行しないということから、選択には意義が生じます。

「法則」が「現実」に先行しないというのは、私のモチベーションを保つ上で、一番基本の原理です。今でもそうです。「法則」は、たとえどれほど妥当性の高いものであっても、あくまで「現実」に対する妥当な解釈(コンセンサス)なのであって、たとえ、100%に近いレベルで事象を「予言」することができても(石を空に放り投げたとき、その石はどうなる?)、「法則」が「客観的真実」とイコールではないわけです。

次回は、ここのところを詰める予定です。