心理ハック
195 新連載・心理哲学談話-Mental Philosophy Logue-005
「幼少体験」か「パブロフの犬」か
前回私は、
「現実」は「決定済み」ではなく、私の「選択」次第で、現実は変わりうる。しかも、その「選択」も「選択の主体」も、確かに実在するものだと、納得できなければならない
と書きました。そして、この「納得」を得るためには、「心理学」以外にはあり得ない(「哲学」という選択も考えましたが、「科学」でなければ自分で納得しがたいだろうという思いが強くありました)と考えました。
しかし、心理学には、心理学の二大勢力と言うべき考え方があって、一方はフロイトを創始者とする「精神分析学派」であり、他方はワトソンとスキナーが発展させた、「行動主義」だったのです。で、私はどちらも好きではなかったので、渡米してからも非常に困りました。
フロイトの考え方で、外せないものはいくつかあって、その1つは「エス(衝動)」と「スーパーエゴ(文化的規律)」の間にはさまれて、「調整役」に終始させられる「私(エゴ)」というモデルです。
現実世界にあわせて言い直すなら、たとえば「性欲」という「エス」に「私」はせっつかれて美少女を求めてさまよい出しますが、そこには「世間の目」という「スーパーエゴ」があるせいで、まごまごしなければならない。「私」とはその両者の、調整役なのです。
このモデルはたしかに私の生活の一断面を語ってはいますが、これを元手にどこまでも説明していく「深層心理モデル」は、いかにもつまらないものでした。たとえば私の学生時代は、だいたい「鬱病的」でした。つまり、フロイト的に言えば「エス(衝動)」が抑え込まれて、不活性になってしまったわけです。その原因は、フロイト的に言えば、「スーパーエゴ(規律)」が強すぎるからです。
しかし、そうではありませんでした。私の内圧が低下していたのは、規律による「押さえ込み」とはほとんど関係がなく、そうではなくて「欲求を満たすだけの、意味(意義)がない」という一種の信念でした。フロイトモデルの大きな問題の1つは、人間は頭で「考える」生き物だという点を、いかにも過小評価しているように、思われます。
当時、私は考え事ばかりしていました。良くも悪くも、というか良くはなかったのですが、「考える」ということが、私の意欲をいちいち挫いてしまっていたため、しまいには何事であれ、意欲するということ自体無価値という感じに、被われていたわけです。決して「欲求」を「抑圧」するつもりはなく、むしろどちらかといえば、「欲求」(それがどんな欲求であれ)に「点火」する方法を探し求めていたわけです。
私はそれほど古風な教育を受けてきませんでしたから、大食だろうと性欲だろうと怠惰だろうと、それ自体悪いという考え方は、それほど多く吹き込まれはしませんでしたし、そんなことを信じるつもりも、まったくありませんでした。むしろ逆に、私がそれらを意欲しない大きな理由の1つとして、それらを満たすことが決して難しくはないからだろう、という予想がありました。
人は、手に入らないものを欲しがるものです。抑圧は、むしろ欲求に火を付けます。(禁酒すると、急に酒が飲みたくなるように)。牢屋に入れられていると、「娑婆の世界」に生きることが、この上なく望ましいことのように思えますが、「娑婆の世界」に生きる私たちは、この世界が「すばらしい新世界」のようには決して感じません。フロイトモデルは、この点の説明が、混乱してしまうモデルのように見えます。
フロイトは、抑圧がゼロだと、人は「エス」(衝動)の赴くままに生きてしまうといわんばかりの時期がありましたが、そうはならないでしょう。彼の「快楽原理」では、人間の「快楽を満たす意義について考えてしまう」という、非常によく見られる現象が、説明しにくくなっています。イギリスの詩人、T・S・エリオットが書いている、あの心理が説明できないのです。
生まれて、つるんで、死んでいく。要するにただそれだけさ。
ここには、「欲望のままに赴く」人の姿が描かれていますが、ちっとも「やる気」に満ちていません。そして詩人は、「つるむ」ことを抑圧しているとも、思えません。「どっちでもいい・・・」といったつぶやきが聞こえるようです。
ここで、フロイトに真っ向から反対した「行動主義」に話をスイッチします。
「行動主義」の基本原理は「パブロフの犬」です。私はこの考え方にも、満足しがたいものがかなりありますが、個人的にはフロイトよりは数段マシだと思っています。というのも、フロイトは推測で人間の「心の構造」を描き出しましたが、「行動主義者」たちは、実験による実証に努めてきたからです。
フロイトの快楽原理は人間を、「快楽によって動く存在」とおおむね規定しましたが、行動主義は人間を「環境によって動く存在」と考えました。パブロフが「犬」を使って実験したあの実験結果に、すべては表れています。エサと鈴の音をワンセットにすると、犬はやがて鈴の音で「よだれを垂らす」ようになる。
鈴の音を食べようとするわけではありませんから、これは「後天的な学習成果」ということになります。これが人間にも当てはまるとすると、人間の行動は、一種の「関連する刺激」に支配されている、ということになります。
スキナーはこれを一歩進めて、レバーを倒せば餌が出る箱を作って、ネズミに「レバーを倒す」行動を学習させました。このような「関連性」の組み合わせ次第で、人間が実際に取るような、多種多様な行動を形成することができる、というわけです。
基本原理は、快楽をもたらすような刺激へと向かい、苦痛をもたらす刺激からは逃れるということですが、たとえば「パソコン」が「便利」という感情と結びつくか、それとも「難しくてプライドを傷つける」という感情と結びつくかで、「パソコン」が改めて「快楽」をもたらすか、「苦痛」をもたらすかが、分れてきます。つまり「中立物」が「強化子」や「罰子」になりうるのです。
つまり、フロイトはあくまで人間の「内部」に「心のエネルギー」をおいたのに対し、ワトソンやスキナーは、「行動」を誘発するものは、人間の「外部」だけにあるとしたのです。フロイトが「内的な快楽原理」を中心に据えたのに対し、行動主義は「外的な環境原理」に重点においたわけです。
どちらもそれなりに、話としては面白いものですが、「人生に食欲がわかない」ということが問題となっていた私としては、両者とも希望をもたらさないものでした。私が、内部の「エス」にコントロールされる存在だろうと、外部の「刺激」に動かされる存在だろうと、自分で動いているわけでない点では、同じです。冒頭に引用した私の「主意」をもう一度引用しますと、
「現実」は「決定済み」ではなく、私の「選択」次第で、現実は変わりうる。しかも、その「選択」も「選択の主体」も、確かに実在するものだと、納得できなければならない
というわけで、どうしても留学中に「新しい心理学の勢力」を見つけ出さなければならなかったのでした。







Twitter
Buzz