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心理ハック

093 無気力学習を超えて Clip to Evernote

「現実」を疑い得ないということが、日常性の中の大きな悲劇です。「疑う」というのは、脳に余力がなければ、やれないことです。

「無気力学習」という残酷な実験をご存じでしょうか?犬を檻の中に閉じこめます。その犬に、電気ショックを与えます。もちろん、犬は電気ショックから逃れようと、檻から逃れようとしたり、色々なことを試みますが、要するに逃げられません。とうとう電気ショックから、逃れるすべが見つからないと、犬は無気力になってそれを甘受するだけになってしまいます。

大事なことは、すっかり無気力になった犬に、「電気ショックから逃れるすべ」を用意してやっても、もう犬はそれを採用できなくなるという点です。鬱病と、「無気力学習」の類似点を指摘する学者は、多くいます。ひどい目に遭えば、逃れようとするのが人間を含めて、全ての動物の生理的反応です。しかし、徹底的に逃れられないことを思い知らされると、逃れられる状況に置かれても、もう逃れようとしなくなるのです。

対照実験も行われています。つまり、電気ショックから逃れられる環境で、犬にショックを与えるという実験です。この場合、犬は無気力にならないのです。

この両者について考えてみれば、生物にとって気力とは、環境が過酷か否かによって、浮沈が決まるわけではなくて、環境に対応できるかどうかで、決まってくるもののようです。

それにしても犬は、悲劇的な環境に置かれ続ければ、無気力性を学習してしまうかもしれませんが、人間はそうではないはずです。人間には、「疑う」能力があります。これが先週お話しした、要点です。人間は、脳を損傷しない限り、疑う能力を保持し続けます。つまり人間なら、「以前には、電気ショックから逃れるすべはなかったけれど、今は、逃れられるのではないか?」と疑うことが出来るのです。

私が思うに、ここで一番のポイントとなる能力とは、懐疑することと、「宣言的記憶」の活用にあると、思います。宣言的記憶とは、いわゆる「体で覚える」記憶ではなくて、「日本の首都は、東京である」のタイプの記憶です。つまり、言葉で表現できる記憶です。これこそが、もっとも包括的な意味で、現実を拒否することを可能とするものです。

今、この現実は「夢なのではないか?」という「宣言」は、感覚的に「疑う」事も不可能ではないのですが、言葉による方がはるかに、あらゆるパターンに応用できます。たとえば、昨日の記憶のどの辺までが、明らかに記憶であって、夢ではなかったのだろう?ということを、感覚だけで考えようとすると、混乱を極めます。

犬は電気ショックを甘受する際にも、愉快であったとは、とうてい考えられません。しかし、犬に「逃れられるかもよ?」と疑いを抱かせることは、無気力性を学習してしまった後では、ほぼ不可能です。これが、言葉を持たず、疑いを持たない生物の、致命的な弱さです。

この場合には、「逃れる」方向にこそ、「やる気」がわくはずです。無気力になるのは、「現実」が度し難いからです。しかし、その「現実」は3つの点で、疑いうるものです。1つは、そもそも「現実なのかどうか?」つまり、夢を見ているかもしれません。今だって、です。2つめには、「甘受しなければならないものかどうか?」人は、現実を選択する能力があります。引っ越しても良いのです。結婚相手を変えてもよいのです。3つ目に、「やる気を出すに値しない」のかどうか?つまり先週お話ししたとおり、「ほら、あそこに赤い鳥が!」と言われても、見つけられないことがありますが、見つければ「現実」はその分、変化するはずです。

つまり人間には、今受け止めている、今認識している、まさに「この現実」の向こう側に、「もう一つの現実」を仮定できる能力があります。この可能性は、常にありつづけます。そして、「この現実」に気力が湧かなくても、「この現実の外にある現実」には、やる気が湧くかもしれないのです。