心理ハック
ここでいう「永田町」はもちろん政治を指す比喩ですが、おそらく「狭い」という意味を込めて、こうした言葉で説明されるように、なったのでしょう。「日本全土には通じない、一部の世界の中だけで通用する、一部の人々の理屈」という意味で。
が、ここまで明瞭に意識することは、めったにありません。そうせずとも、なんとなく分かるものです。それは、頭の中の連想の働きによるものですが、その連想がどう働いたかを、あえて意識するのは面倒です。というより、まずそんなことはしないものです。
かつて中学校で、「フレッシュライフ」(レナウンの抗菌靴下)というネーミングを、「通勤快足」と変えただけで、年間の売り上げが30倍にも伸びた、という話を習いました。考えてみますと、言葉というのは、たとえ話のカタマリとも言えます。対象そのものを指し示すことは、実はそれほど多くなく、たいていは何かを代替えし、喩えて説明しているわけです。
たとえというのはまた、事実上の慣用句であった方が、伝わりやすいものです。奇抜なたとえより、誰もが知っている喩えの方が、わかりやすいのは当然です。「永田町」も、今や慣用句に近いと言えるでしょう。慣用句だからこそ、分かる、分かったような気になる、という言葉は、たくさんあります。
「負けず嫌い」(負けないことが、キライなのでしょうか?)
「あいつは、大根だ」(役者のことでしょう。いちいち野菜のダイコンを思い浮かべはしないでしょう)
「付け焼き刃」(刃に付けるものは?)
何かを人に「教える」際には特にそうですが、実は「たとえ話」を用いるのは、「断定したい」という事情があるせいのようです。たとえば、喩えにも何にもなっていないのですが、スキーの先生はよく初心者に向かって
「スキーなんて、結局(←これも喩えにはよく出てくる枕詞)、氷の上を板で滑るだけなんだから!子供でも誰でもやってるんだから!」
だから怖いことではない、と断定しているわけです。
「彼は、ダイコンだ」というのも断定なら、「結局、永田町の論理で動いている」というのも断定です。「通勤快足」は巧みなものの、やはり断定です。何かを初めて伝えようと思ったら、どうしても細かなところは、少々精確さを犠牲にしてでも、バッサリ切り落とさなければなりません。場合によっては、ほとんどウソになる。それでもその断定の力強さに、人はいわば、納得させられてしまうわけです。
ところで、たとえ話は、要するに「代替え」ですから、少なくとも一つ(の概念)は、それを用いなければならない理由が必要です。代替えを持ってくるということは、持ってくるだけの根拠が必要なわけです。いくらすぐ近くでも、政治家の内向き感覚を揶揄するのに、「有楽町の論理」などとは言えません。比喩を使うには、連想を生じさせなければならず、頭の中に繋がりが全くない言葉で、連想は生じないのです。









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