心理ハック
059 予測と「ネオフィリア」(新しもの好き)

私の『「ロボット」心理学』は、サブタイトルを「新しもの好きの心理学」と付けました。これは、生物学者、ライアル・ワトソンの『ネオフィリア』のサブタイトル、「新しもの好きの生態学」をもじったものです。
今回までの、「ロボット」心理学2のエントリで、「ロボット」のトップダウン・プロセスについて、述べてきました。すなわち、海馬をそのプロセスの最上位と仮定し、
海馬→上位「ロボット」→下位「ロボット」→知覚器官
というプロセスです。「私」が「何か楽しいことしたいなあ・・・」と思ったとたん、もう海馬は、その膨大な記憶辞書をひっくり返してくれます。そして、「今できる楽しいことリスト」をピックアップし、そのどれを「私」が選んでみたところで、例えば「私」がビリー・ジョエルのアルバムを手にすれば、たちまち海馬が、そのアルバムの曲目をリストップし、そのアルバムを聴いたときの気分をリストップし、そのアルバムを聞きながらやれることまでリストアップしてくれるのです。
便利なことこの上ないですが、「私」の覚醒レベルを上げるチャンスを、おかげでみすみす失います。海馬の出しゃばりのせいで、「私」がアルバムを聴く気にならない、という説明は自然ですが、厳密には不適切。「聞く」事は聞くのですが、問題なのは注意レベル。海馬が「予測」に成功すると、注意レベルを上げる理由を失うのです。
したがって、アルバムを手にしたときの注意レベルが低いなら、アルバムを聴き始めても、やはり海馬の「ロボット」への適切きわまりない処置のおかげで、注意レベルは低いままなのです。注意レベルが低いということは、作動記憶まで音楽が回ってきているかどうか、疑わしいということになります。ちょうど、全然別のことをイメージしながら英単語帳をめくっていても、英単語を一時的にすら、記憶できないことと同じです。
このように、海馬が難なく予測してしまうほど慣れた対象と接しても、海馬と注意(前頭前野)との乖離が、埋まらないのが悩みの種です。もちろんこのシステムがあるからこそ、海馬に「運転」を任せ、自分は行き先での挨拶に、「注意」を払っていられるわけですが。
いずれにせよ、問題は「乖離」です。「私」とロボットの乖離であり、「注意」と「予測」の乖離であり、「前頭葉」と「海馬」の乖離であります。
好きな音楽の場合のように、あえて注意を払いたいような刺激については、海馬の予測システムの動向にかかわらず、注意レベルを上げたいわけです。そうしないと、音楽をかけても、聞いたことにならないからです。
注意するには、予想通りではないことに、接する必要があります。予想通りのことに注意を払わないのは、人間にとって自然のことです。本当は、たいてい生物全体について、予想通りであれば注意に値しないのは自然ですが、たいていの生物は人間と違い、長期記憶が全く弱いので、ほとんどどんなことも「予想外」なのです。それは予想自体、人間のようには出来ないからなのでしょう。
ただし、注意レベルをいかに必要とするとはいえ、予想が全くつかないのも、人間は喜びません。算数の苦手な小学生に、連立方程式を教えても、うだるだけでしょう。このようなものは、海馬にも予想が全くつきません。ということは、「ロボット」がないということであり、ものすごい量の注意レベルを要求されます。おそらく前頭前野がフル活動するということは、よほど疲れることなので、そんな仕事には「私」が絶望して、いやになってしまいます。
というわけで、人が最も望むものは、すなわち予測可能でありながら、注意をも必要とすること、というわけです。これが人をして、ネオフィリアとすることになります。ここまでは、このメルマガをお読みの方には、そろそろ飽きてきた話かもしれませんが、今日はとりあえずとことんまとめてみているわけです。
でも今日は、少しこの続きをしてみます。
人が最も望むものは、「熟達した「ロボット」が使えて、なおかつそれの新しい使用法が必要な対象」であるとして、どんなものがそうであるか、具体的に考えてみましょう。
第1に、勝負事。スポーツでも例えば、マラソンや水泳のような、ほぼ完全に一人きりでやるものより、勝負事に人が熱中しやすいわけは、予測と予測の裏切り=注意力を要求されるからでしょう。自分の「ロボット」に満足しきれない、自分より強い相手がいるわけです。
第2に、ギャンブル。これはそもそも、完璧な「ロボット」を作ること自体が、原理上不可能です。そこへ利害が絡むものですから、注意力を持って「ロボット」を使わざるを得ないのです。
第3に、空想。白昼夢でもいいのですが、この言葉からして、注意力と海馬の理想的組み合わせです。夢を見ながら、目覚めているようなものです(これを「明晰夢」といいます)。性的な空想は代表的ですが、注意レベルを上げる十分な理由と、長期記憶からの「ロボット」を、勝手に選んでいるところが、ポイントです。乖離など、起こる理由もありません。
第4に、~しながらの、趣味。常にそうとは限りませんが、話を聞くと多くの人が、空想しながら散歩、考え事をしながらの運転、見てるようで見ていない相撲や野球中継、を「至福の時間」と名付けています。これは一見「乖離」ですが、これらを趣味としている人は、これを長年繰り返すことで、「~しながら行為する」事を、「ロボット」化しているのでしょう。いわば、「考え事をしながら相撲を見るロボット」を育て上げることで、その「ロボット」を使いながら、その「ロボット」への注意をも、払っているわけです。相撲自体、考え事自体には注意を払っていないのですが、その両方を一体化させて、注意しているわけです。だからこそ、「どっち勝ったの?」という問いには答えられず、「何か考えていたの?」と聞かれても答えられないわけです。しかし、寝ていたわけでもないのです。








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